三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
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少ない資料ですが、それらを整理して、大主耕雨の経歴をまとめHPに後で載せようと思います。
弟子や関係者はいっぱいいるので、ぼちぼちと。
耕雨の短冊なんかもあるので、そっちもぼちぼちと紹介。
『耕雨遺稿』は、巻頭にカラーで自筆を刷ったものが三句ほどある。巻頭だからある程度代表句だろうということで、紹介したいところだが、読めぬ…。
というわけで、そこは抜かして、今回は本文の俳句の題だけを順に抜き出して見る。
以下次回
『耕雨遺稿』跋文。
字が難解でわからない所が多く時間がかかってしまった。
読み間違いもだいぶありそう。
耕雨没後7年であることや、耕雨の関係者が編集したこと、また、活字でなく本人の筆跡をそのまま版木にしていることなどから、今までの本より『遺稿』の方が正しいと思われる。というか、多分この内容を参考にしたんじゃなかろうか。
そういう前提で以下。
○六歳の時詠んだ「たんぽぽ」の句が書いてある。「蒲公英(たんぽぽ)や水もかけぬにひとり笑(えみ)」ただし読みがちょっとあやしいところがある。
○神宮主典をやめたのは、『続先賢伝』では明治24年となっているが、跋では明治26年が正しい。
○耕雨の養父の名は『続先賢伝』では「鶴外」とあるが、『人物誌』やこの跋では「鶴郊」。こちらが正しいと思われる。
○跋を書いた「有無庵二道(矢野二道)」は俳文学大辞典には載ってない。ネットで調べると、名古屋大曽根(現名古屋市北区と東区)生、伊勢町(現名古屋市中区)住の人で、吉原酔雨、松浦羽洲門。没年が昭和3年、60歳とあるので、生没年は明治2年(1869)~昭和3年(1928)。耕雨より35年少。
今回は『耕雨遺稿』を。ある意味これを手に入れたので大主耕雨のことを調べる気になったともいえる。まずは耕雨のことが書かれた序文と跋文の解読から。うねうねした字で書かれてるので自身はない。そのあと本文。いろいろな物について句が詠まれているので、読めばいくらか参考になるかも。
序を書いたのは姫路の俳人、瀬川露城。改行は元本通り。改ページは一行空け。
ちょっとわからないところあるけど、思ったよりは読めた。気がする。
ただし新しい情報はあまりない。
○「神職の家にして、叟此職に在こと四十餘年」とある。『夜話』より嘉永三年(1850)、16歳ごろに神職についている。『続先賢伝』から明治24年(1891)、57歳ごろに退職したことがわかる。その間41、2年。「四十餘年」は合致する。『夜話』に明治4年一旦解職とあり、『続先賢伝』に明治14年から主典とあるが、これで明治4~14年の間も神職であることがわかる。ただしこの間の神宮内の役職は不明。元の家職である宮掌大内人か、それとも主典か、または他か。『続先賢伝』は明治14年から主典とあるが、『夜話』はすぐに主典になったような書き方がしてある。
まぁ何もなくても、例えばわざわざ序を書いているんだから、瀬川露城が耕雨と交友があったのがわかるし、本の最後に弟子の名前が列挙してあるので、人物関係はわかる。
全部終わったら、三重の人名事典を端から順番に見て耕雨の弟子や交友のあった人物をひろっていきいこうかと。
辞典とネットの情報を。
○「旧派」など、歴史的な位置づけは良く知らないのでとりあえず置いておいて、編著の『あきの声』『時雨集』が新情報。
○明治期の小説(人情本?)に「耕雨小史評点」というのがいくつか見受けられる。ジャンルも全然違うし、恐らく別人だが、念のため書いておく。
○伊勢市楠部町松尾山観音寺に句碑があるとのこと。位置的には内宮から直線距離で東へ7、800mほど。句碑がある理由はよくわからない。句は「夕暮を譲りあひけり花と水」 で、『人物誌』に掲載されている。建立は大正5年5月 。耕雨は大正4年10月7日没なので、死後7か月後のもの。
○跡見学園女子大学図書館の画像データベースに『明治新撰 俳諧百人一首』(晋雪庵柳崖編、老鼠堂永機校、明治33年)に大主耕雨の挿絵と俳句がある。俳句は「為豊園耕雨/かけうつす花にはい鳬水けふり」
○俳諧雑誌『翁の友』に関する論文がある(「『俳諧翁の友』の実態と地域資料としての位置づけ」木下朋美、綿抜豊昭)。この雑誌に大主耕雨が俳諧宗匠として名前がある。『翁の友』は明治20年代に発行されていた雑誌で、おそらく明治26年7月の60号が最終号。下総国香取郡香取村(現千葉県香取市)の高岡鶴松編集、翁友社発行。この雑誌に投稿された数(51号~60号)は62地区中「伊勢」は7位で、かなりの投稿がある。伊勢で一番投稿数が多かったのは「晴浦」という号の投稿者(不詳)。
○「鳴弦文庫(千葉県の近代俳句の資料を収集している私設図書館)蔵 明治期俳書目録」にいくつか大主耕雨の名前がある。
・明治28年『掌中明治百歌仙』為豊園耕雨序。千葉正文堂発行。
・明治36年序『今二百員・今二百韻』大主耕雨序。大主耕雨発行。
・明治42年『俳誌松の風1号・2号』為豊園耕雨・一点庵椿堂選。一志郡八知村松風会発行。
・参考までに。「耕雨」の号で、千葉に服部耕雨という人がいる。他に指頭庵、香樹園という号がある。間違い防止のため。
○「秋田県公文書館所蔵 落穂文庫目録」に会田素山宛の書簡が14通ある。会田素山は秋田藩士で俳人。生没年は文政2年(1819)~明治25年(1892)。耕雨より16歳年長。
『松杉亭夜話』(昭和9年)に大主耕雨の記事がいくかあるのでそれを。ちなみにこの本の著者の松木時彦は、神官、国学者、歌人で、『人物誌』にも項があります。
では、本文を以下に。誤植はそのままにしてあります。
○耕雨の父、大主鶴郊の名前が「光貴」(みつたか?)であることがわかる。
○「月夜見宮」=外宮となぜか勘違いしていたが、外宮の別宮だった。外宮の北、伊勢市宮後にある。
○嘉永三年(1850)6月(16歳ぐらい)に外宮別宮月夜見宮物忌職正六位、宮掌大内人を兼ねる。「物忌職」は「伊勢神宮をはじめとして香取・鹿島・春日(かすが)・賀茂などの大社に仕えた童男・童女」だろうか。やっぱりよくわからない。前回の宮掌で大内人はだいたい意味的にはあっていた。
○前回までの内容とあわせると、明治4年に一旦解職、明治14年に正五位主典になり、10年勤める、ったということになるが…明治4~明治14年の間は?神宮の他の職についていたのか、一旦やめていたのか。
○『人物誌』と同じく「梅慰舎梅通」と同じ間違いをしている(正しくは「麦慰舎」)。どちらかがどちらかを参考にしたと思われる。
○資産家であったことが新たにわかる。
次回は『大主遺稿』から。序と跋に門人が耕雨について書いた文があるので、それを中心に。ちなみにくずし字なので、何回かに分けて読みます。字がへにょへにょしてるので、解読難航予定。
あ、その前にネットや俳文学大事典の記事も参考にしてみる。