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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

大主耕雨003

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大主耕雨003


『松杉亭夜話』(昭和9年)に大主耕雨の記事がいくかあるのでそれを。ちなみにこの本の著者の松木時彦は、神官、国学者、歌人で、『人物誌』にも項があります。
では、本文を以下に。誤植はそのままにしてあります。


耕雨宗匠
新都近代に於ける俳道の宗匠と云へば、まづ誰しも大主耕雨を推すであらう。この人の経歴を見るに、白米満省の二男で天保十四年九月大主光貴の養子となり、嘉永三年六月外宮別宮月夜見宮物忌職正六位となり、宮掌大内人を兼ね、明治四年神宮改正に伴ひて解職、更に神宮に奉職して主典を拝し、永く白衣の生活を送った人である。
 次に俳道に於ける経歴をみるに、幼より文を好み、夜雨亭米牛に師事し、又京都の梅慰舎梅通の門に入って研究する事多年、諸国の俳人と交友してその名をあらはし、遂に俳道の宗匠となった。殊に退官後は更に斯道に一層精進して宗匠の名遠近に聞え、添作を乞ふ者四時絶えざる程であった。大正四年十月七日八十一日の高齢を以て、この世を去った。
 以上述ぶる処は表面的の事で、誰しも知る処であるが、些かその裏面を覗かう。宗匠の家は元来屈指の資産家であって、毎に金銭の融通をした関係上、勢貸借の俗務も、自然多忙であったらしい。然し宗匠には風流と俗務とを明にし、俳句は俳句、金は金とハッキリした区別をたてゝ、些かもその混交は許さなかった、この点はたしかに宗匠の一特異性であって、敬服するに足る性格の持主であった。



○耕雨の父、大主鶴郊の名前が「光貴」(みつたか?)であることがわかる。
○「月夜見宮」=外宮となぜか勘違いしていたが、外宮の別宮だった。外宮の北、伊勢市宮後にある。
○嘉永三年(1850)6月(16歳ぐらい)に外宮別宮月夜見宮物忌職正六位、宮掌大内人を兼ねる。「物忌職」は「伊勢神宮をはじめとして香取・鹿島・春日(かすが)・賀茂などの大社に仕えた童男・童女」だろうか。やっぱりよくわからない。前回の宮掌で大内人はだいたい意味的にはあっていた。
○前回までの内容とあわせると、明治4年に一旦解職、明治14年に正五位主典になり、10年勤める、ったということになるが…明治4~明治14年の間は?神宮の他の職についていたのか、一旦やめていたのか。
○『人物誌』と同じく「梅慰舎梅通」と同じ間違いをしている(正しくは「麦慰舎」)。どちらかがどちらかを参考にしたと思われる。
○資産家であったことが新たにわかる。


次回は『大主遺稿』から。序と跋に門人が耕雨について書いた文があるので、それを中心に。ちなみにくずし字なので、何回かに分けて読みます。字がへにょへにょしてるので、解読難航予定。
あ、その前にネットや俳文学大事典の記事も参考にしてみる。

 

 

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