十六世 杉本隆重
文政十年二月十七日田中中世古(本町)に生れた。父樋口秀惇
五男、母馬瀬氏、出でて浦口町堤世古の杉本喜重の養嗣となっ
た。幼名寛蔵、後荘司、荘右衛門、荘陸、隠居後隆重と称し、
松柏の号があった。
初め師職の代官を勤め、明治四年師職廃止後、和泉国貝塚
感田神社の神主を奉仕し、明治六年十月より同九年十二月迄、
本県地租改正事務に従事、同十年一月より同十五年十二月迄山田
神風講社祭典係となり、教導職補となった。(早修人物誌)
国学和歌を足代弘訓に、俳諧を淇石、角洲、只青及び麦慰舎梅通
に学んだ。弘化三年、柳葉屋春魚編、発句類題伊勢海、自認通称千家集
に松柏号で句が入集して居るのが、最も初期の作品と思う。
明治十年神無月神風館継承の発願文を草し、同十一年神風館を
襲いで十六世主となった。その当時足代家に差入れた証書によると
(榊原頼輔氏著「足代弘訓」)
奉差上証状の事
一、私議俳道熱心に付神風館の御号御預り申度段御懇望申上
候所御許容被成下忝奉存候尤其家御伝来の御館号に御座得
候者私より勝手に弟子に譲り等仕間敷後輩御見立の儀は其御
家に而御勝手可被仰付旨奉畏候事
一、神風館附属の什物別紙の通り正に奉預候上は大切に保護
仕紛失等決而仕間敷候事
一、弘氏神主御忌日(八月十八日)弘員神主御忌日(八月二十
三日)当日為追福手向の俳諧興行可仕候事
右の通り堅く相心得可申候後来奉差上証状如件
明治十一年一月二十日 杉本隆重 印
________保証 同男 荘隆 印
________同__親井清大夫 印
足代弘直殿
同御親類 御中
○
証
一、文台 一脚
但春慶塗裡書等無之
一、重硯 五重
但白木箱入
一、印章 □□□○□□□ 五顆
一、掛物 十軸
内神風館始祖弘氏神主筆水くらけ 一軸
〃三世涼菟筆 〃
〃四世曽北筆 〃
〃五世梅路筆 〃
〃六世温故筆 〃
〃七世何声筆 〃
〃八世入楚筆 〃九世洗利筆
〃十世弘臣筆 〃十一世寸大筆
〃十二世木蓊筆 右五名筆合併 一軸
〃十三世丘高筆 〃
〃十四世秋水筆 〃
〃十五世只青筆 〃
通計 十軸 外に 一軸
追加 二世弘員神主筆
但右二世の染筆の掛物無之に付、此度隆重に至り其
御家所蔵の短冊を申受、神風館永世什物となす分
一、印筥 但桑六角打覆蓋紐付 一個
為田只青寄付の品
一、肉入 但漆器丸型打覆蓋
個人寄付の品
右什物悉皆挟箱に入れ有之。尤伝来の古物、油単あり、かけ
ごあり。
右の通正に御預り申候也。
明治十一年一月二十日
______________杉本隆重 印
___________保証 同男荘隆 印
______________親井清大夫
足代弘直殿
同御親類中
館号継承の栄誉を得るに就ては、相当荘重な挨拶がなされた
のであった。なほ二世弘員の筆蹟物が什物の中に伝えられて居
なかったことに関しては、明治十一年一月十二日隆重が、足代
弘長、中西弘縄に宛てた書簡(神宮文庫蔵)にも見えて居り、
それ故に「為田只青子がいかなる人が二世を続つらん其人の遺筆
なくして不明なるは遺憾なり云々」と、語ったところをその
まゝ消息して居る。二十余年の久しき間神風館主であった十五
世主只青が、二世主を弘員とすることを知らなかった迂闊のそ
しりは免れ難きも、その一面に於て二世主を伝える確かな神風館
系統書の伝来せなかったことにも因るものと思う。
明治十四年、大主耕雨及び東京の一蓮舎托生と協力して、岡本町
神風講社庭に、芭蕉の何木塚を建立した(俳諧友雅新報第三十四号)
碑句の筆者は久志本常庸であり(聞鶯遺稿)現存して居る。
なほ俳文も善くし「はせをの影」誌に、蛭子講、鈴虫を送る辞等遺文
が載せられて居る。
明治十六年十一月十七日没、五十七歳
墓所 浦口町天神丘
碑面 教導職試補杉木隆重之墓
辞世 みつくさてあたら此世や終るらん/月雪花のみつのけしきを
月花の名残に重き枕かな
○
大箸や子供のやうな持こゝろ
蝶飛ぶや旅なつかしとおもふ朝
花守のこゝろゆるさぬ寝起かな
留守の戸を預り顔や鳴いとゝ
(付記)樋口秀惇、通称次郎左衛門は、浦口町杉木幸右衛門久通
の三男で、出でて田中々中世古の樋口秀営の養子となり、
嘉永六年二月十日、播磨国東二見に於て、六十八歳にて没した。
隆重を始め、芝田星槎、中村其桃、親井桃雨、杉本杞柳の
妻(隆重の姉にして養母)の実父である。