三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
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前回言った通り、『伊勢渡会人物誌』より。改訂版なので昭和50年発行だが、元版は昭和9年くらいだったはず。前回の『先賢伝』と今回の『人物誌』が、三重県の過去の人物を調べる時の一般的な本である。
『人物誌』は最初に人物の基礎データがあって、後にその事跡が掲載される、という形をとっている。
○『続先賢伝』に無い、または相違する所のみ書く。
○実父の白米(はくまい)満省(みつよし?)は人名事典等になく不詳。ただし兄の白米家を継いだ白米棋外(きがい)という人は掲載されている。生没年は天保元年(1840)~明治45年(1912)。耕雨より5歳年長。兄も俳諧をよくし、野村野渡(やと)の門人。野村野渡は夜雨亭(やうてい)の門人だという。大主耕雨の先生の中瀬米牛が夜雨亭五世だから、その何世か前の夜雨亭だろう。
○父の名、鶴郊は、『続先賢伝』では鶴外。字(あざな)の光穆(こうぼく)は『続先賢伝』にはない。
○住所が八日市場とある。ちなみに父も息子も住所は八日市場となっている。現在の伊勢市八日市場町の位置は、外宮の西側+外宮の外の北側。
○墓地は二俣山崎。現在の伊勢市二俣は例によって「伊勢市二俣」と「伊勢市二俣町」にわかれている。場所は外宮の西。ちなみに大主耕雨について出てきた地名の位置関係をあげると、大主家の住所の八日市場が現在の外宮の中+北にあり、その西に父鶴郊の生地である浦口、その西が墓地のある二俣、その西が耕雨の生地である辻久留、となる。すべて隣接している。山崎は不明。
○あと、耕雨父、耕雨の「事跡」と耕雨の息子の「墓地」のところに「辻久留に移」と書かれているが不明。誤植で、3人の墓地は辻久留へ移された、という意味とか?
○神宮宮掌とあるが、宮掌(くじょう)は「伊勢神宮や熱田神宮の神職の一。権禰宜(ごんのねぎ)の下に置かれる。みやじょう。」とある。神宮の役職は複雑でよくわからない…。『続先賢伝』とあわせると、最初家職である大内人という役職で、階級?は宮掌、のちに階級?が主典にあがったということ?ここらへんは詳しい人と時々あうのでまた聞いてみよう。
○「梅慰舎梅通」は堤梅通のことだが、「麦慰舎」の間違い。
以上。資料はあといくつか。
人物については、まずは地元の人名事典から。
まずは『続三重先賢伝』(昭和8年)の大主耕雨(おおぬしこうう)の項より。
○山田の人で、通称は織江。読みは「おりえ」だろか。為豊園(いほうえん)。半田居士(はんでんこじ)。
○天保6年5月生まれ。天保6年は1835年。時代的には、次の年の天保7年(1836年)に画家の磯部百鱗が生まれ、その次の年の天保8年(1837年)に、三重県とも関係の深い大塩平八郎の乱が起った。
○辻久留は…あれ、現在「伊勢市辻久留」と「伊勢市辻久留町」が別にある。どちらも外宮西だけど、辻久留は宮川沿い、辻久留町は、その南あたり。一応繋がってるので昔はまとめて辻久留だったんだろうか。
○父の大主鶴外は、『伊勢渡会人物志』だと「鶴郊」となっている。画と俳諧をよくした。画は四条派で、あの有名な松村景文に習っていたらしい。ほー。まぁでもこういうはしの部分はまた今度。『人物志』の記述も後々。
○俳諧の詩は父と、中瀬米牛。中瀬米牛はよく名前が出てくるがあまり知らないな。『続先賢伝』によれば伊勢山田浦口町の人。あれ、浦口町また「伊勢市浦口」と「伊勢市浦口町」がある。町の有無で別地区って伊勢市のデフォなの?まあいいや。場所的には辻久留の東隣で、外宮のすぐ西。書道と俳諧がたくみだった人。生没年は文化10年(1813)~万延2年(1861)。耕雨より22歳年長。夜雨亭五世。他にも『続先賢伝
』に浦口の夜雨亭二曲って人がいるから、夜雨亭は全国的なものじゃなくその地の俳名らしい。
○万延元年(1860)京都へ。耕雨26歳くらい。
○花の本梅通は堤梅通。京都の俳人で生没年は寛政9年(1797)~元治元年(1864)。耕雨より38歳年長。
○文久2年(1862)年。耕雨28歳ほど。二条家から御門下連衆に加えられ、免状をもらうとあるが。御門下連衆とはなんぞや。連衆(れんじゅ)は辞書に「(1)連歌・連句の会席に出て詠み合う人々。(2)江戸幕府で、連歌始めのとき、連歌師とともに出席した役。多くは神官・僧侶が任ぜられ、寺社奉行の支配下にあった。 」とある。(2)の連歌始めは幕府の年中行事なので(1)の意味と思われる。つまり、二条家での連句(=俳諧連歌)会に出席を許された、ということか。けど、公家が俳諧するとかあんまり聞いたことないが…そこらへんはどうなんだろうか。
○家は代々、月夜見宮大内人で、家職を継いで正五位になったとある。月夜見宮は外宮。大内人(おおうちびと)は「伊勢神宮・熱田神宮などの大神宮に仕え,供御(くご)の事などをつかさどった神職。」とある。供御(くご)は天皇などえらい人の飲食物。ということはお供え物のことかな。いつ京都から伊勢へ帰ってきて、いつ継いだのかは、『続先賢伝』には書いてないのでわからない。
○明治14年(1881)から10ヶ年間(~1891)神宮主典。明治22年(1889)、27年(1894)の遷宮に奉仕した。主典(しゅてん/さかん)は禰宜(ねぎ)の下で祭儀・庶務を担当した神職。明治22年には第56回式年遷宮があったが、明治27年は何?不明。
○大正4年(1915)10月7日没。年81。
今回は以上。次回は『伊勢渡会人物誌』の方を見てみます。で、いくつか見て、最終的に経歴をまとめる、という方向で。