少ない資料ですが、それらを整理して、大主耕雨の経歴をまとめHPに後で載せようと思います。
弟子や関係者はいっぱいいるので、ぼちぼちと。
耕雨の短冊なんかもあるので、そっちもぼちぼちと紹介。
『耕雨遺稿』は、巻頭にカラーで自筆を刷ったものが三句ほどある。巻頭だからある程度代表句だろうということで、紹介したいところだが、読めぬ…。
というわけで、そこは抜かして、今回は本文の俳句の題だけを順に抜き出して見る。
・五十鈴川所見
・太陽暦御頒行儀に年の改りければ一月一日量嵎に参拝して
・羽洲老米寿に
※羽洲は松浦羽洲。跋を書いた矢野二道は羽洲の門人。
・八十自賀
※大正三年(1914)。亡くなる前年。
・国分寺旧跡
・皇大神宮御鎮座千九百年奉祝祭
※ 明治三十年(1897)。
・宇佐八幡宮千三百三十年祭
※不明。
・鳳羽老の古稀を祝して
※森山鳳羽?ネットには羽洲の門人とある。『俳文学大辞典』には項があり、奈良県生まれの政治家で、維新後富山県知事、貴族院議員など。俳諧は茶飯堂蟻兄に学とある。生没年は天保13年(1842)~大正8年(1919)。78歳没。耕雨より7歳年少。
・男近青は前号を天籟と呼ぶ。はからずたね女をめとりけるを寿きて
※耕雨の息子「大主近青」は『人物誌』に記載がある。名は重彌。号は天籟堂。医師、俳人。没年は耕雨よりはやい。慶応3年(1867)~大正3年(1914)。48歳。
・鴨川水楼
・傚夜半翁調
※大阪出身で虚子門の後藤夜半という俳人がいるが、明治28年生まれで耕雨よりかなりの年少なので、はたして。
・宗祇法師の遠忌を営まれける其旧跡をしたひて
※宗祇は文亀2年(1502)没。遠忌は50年ごとなので、該当する遠忌は400回忌の明治34年(1901)か。
・五十鈴川
・三軒屋にて
以下次回