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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

大主耕雨006

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大主耕雨006


『耕雨遺稿』跋文。
字が難解でわからない所が多く時間がかかってしまった。
読み間違いもだいぶありそう。



耕雨叟は大主氏。織江と称し、為豊園、又
半田居士と号しぬ。伊勢の山田市辻久留
町白米満省の四男に生れ、故ありて八日
市場の神職大主光貴の嗣子となり、
嘉永三年宮掌大内人に補され、月
読宮物忌となれき。明治四年、神宮の
改正ありて位職を廃せらる。同十四年、神
宮宮掌に任ぜられ、尋いで主典となられしが、

同廿六年に職を辞されき。抑叟は幼きより
風雅の志あり。六歳の時已に蒲公英や
水もかけぬにひとり笑の一句を諷はれ、さ
れば父鶴郊思はずも■手を挙げられ
しとかや。叟それよりして同処の夜雨
亭米牛に就て俳諧を学び、後更に
麦慰舎梅通の門に入り、忙中の閑を
ぬすみて斯道の為に尽されし事多く、

声望一時に高かりしが、官袴?を祝てよりは
もはら風雅の三昧に入り、爰かしこの月
花に逍遥し、傍ら門下の養成に暇
なかりけるに、天寿限りありて大正四年
十月七日、惜むべし、白玉楼中のひとゝ
なられき。于時齢八十一。於是門下の人々、
叟が遺吟を笥底にひめおきて徒らに残、
魚の餌となさむ事を悲み、之を桜木に

のぼせて叟が風雅を不朽に伝へむと■す。
すなはち遺族と語らひて七年、臘梅
の綻びぬる頃、秋雨・耕雪の両子、同■を
代表して予が草扉をたゝき、叟がな■を
■する牛ならぬ車より下して積れしに、
其冊子、忽ち棟に充ちぬ。そは叟がいせの
浜荻の起臥に吐出だされしくさゞゝにして
いづれ浪華のよしあしあらむをしかと見

定めて■れよと請はる。あゝ其選句の難
き、到底予が能力の及ぶ処にあらず
と、幾度か固辞すれどもきかれず。よりて
叟が旧交浅からざりし故をもて遂に
其稿を閲するにあたり、こゝに心を潜むる
こと数月、漸■業の斯いたりて耕雨
遺稿と題しぬ。しかはあれど在天の霊、
もしわが許に降り来まして■しにを■

もしゝ粗忽をみたまはゞ、予は唯
白頭を掻きてひくゝふさむのみ。

有無庵二道




耕雨没後7年であることや、耕雨の関係者が編集したこと、また、活字でなく本人の筆跡をそのまま版木にしていることなどから、今までの本より『遺稿』の方が正しいと思われる。というか、多分この内容を参考にしたんじゃなかろうか。
そういう前提で以下。


○六歳の時詠んだ「たんぽぽ」の句が書いてある。「蒲公英(たんぽぽ)や水もかけぬにひとり笑(えみ)」ただし読みがちょっとあやしいところがある。
○神宮主典をやめたのは、『続先賢伝』では明治24年となっているが、跋では明治26年が正しい。
○耕雨の養父の名は『続先賢伝』では「鶴外」とあるが、『人物誌』やこの跋では「鶴郊」。こちらが正しいと思われる。
○跋を書いた「有無庵二道(矢野二道)」は俳文学大辞典には載ってない。ネットで調べると、名古屋大曽根(現名古屋市北区と東区)生、伊勢町(現名古屋市中区)住の人で、吉原酔雨、松浦羽洲門。没年が昭和3年、60歳とあるので、生没年は明治2年(1869)~昭和3年(1928)。耕雨より35年少。


 

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