三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
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久々に。
ずーーっとサボってましたが再開。ほんのちょっとづつでもいいからせめて神風館終わるまでは続けたいところ。
神風館三世 岩田涼菟まとめ
万治二年(1659)生まれ。幼名又次郎、通称権七郎、号は団友斎。一志町などに住んだ。家は御師の代官だとされる。そのため、度重なる旅行は御師の代官としての檀廻(だんめぐり)も兼ねていたかとも思われる。
俳諧をはじめたのは天和二年(1682、24歳)頃。芭蕉入門の時期は、芭蕉の晩年だと思われる。
元禄七年(1694、36歳)、支考が山田に寓居し、交流がはじまる。
元禄八年(1695、37歳)、支考を江戸に送り、美濃の木因と会う。木因とは特に親密な間柄だった。
元禄九年(1696、38歳)、越中高岡(富山県高岡市)へ。
元禄十一年(1698、40歳)、江戸に行き、帰りに美濃の木因を訪れる。同年、涼菟の句を立句とする「伊勢新百韻」が出版される。これは伊勢美濃派のさきがけとされる句集であった。
元禄十三年(1700、42歳)頃、神風館の号を再興して継ぐか。正徳四年(1714、56歳)までには継いでいるが、詳細時期は不明。
元禄十六年(1703、45歳)、近松「曽根崎心中」初演。近松がこの作品の道行の文句に詰まった時、たまたま居合わせた涼菟が談笑のうちに言った「夢の夢こそ果敢(はかな)けれ」が採用された、という俗説がある。
元禄十六年(1703、45歳)秋、乙由と旅行。石川県の山中温泉・金沢をめぐり、長野県を通って岐阜で木因に会い、名古屋、桑名を経て帰郷した。
宝永元年(1704、46歳)秋、船路で九州へ。一の谷、須磨、明石を経て尾道、広島、厳島に、九州の宇佐に詣でて宝永二年(1705、47歳)の新春を九州で迎え、夏の頃に帰った。この旅行の時、大分県豊後高田市来縄(くなわ)で偶然に山田の俳人で弟子の浦田芦本と出会う。
宝永五年(1708、50歳)冬、木因とともに京都へ。
正徳四年(1714、56歳)曽北とともに京都へ、ついで石川県の金沢や安宅へ、さらに旅して新潟県高田で正徳五年(1715、57歳)となった。ここから奥の細道に沿って奥州行脚をこころざすが老いや肥満により雲鈴に諭されて断念、その雲鈴(京都の人なので京都より同道?)とともに長野各地を巡り、名古屋へ行ってから帰郷した。
享保元年(1716、58歳)冬に大垣の木因を訪れた。
享保二年(1717、59歳)夏、病没。
まとめは(6)に
○浦田蘆本(1664~1736)山田の俳人。岩田涼菟の門下。編著に師の追善集「其暁(そのあかつき)」のほか,「第四伊勢墨なをし」などがある。通称は藤兵衛。別号に葎門亭,東向斎。
○行脚袋-頭陀袋(ずだぶくろ)?
○木馬(きうま、きんま)-雪のない地方の山で使われる木材搬出用のそり。
○梨一-高橋梨一(1714~1783)。俳人。代官所役人をつとめる。佐久間柳居に俳諧をまなび、「奥細道菅菰(すがごも)抄」をあらわす。のち越前(福井県)丸岡藩にまねかれた。武蔵児玉郡(埼玉県)出身。本姓は関。名は高啓、干啓。字(あざな)は子明。別号に蓑笠(さりゅう)庵。著作に「もとの清水」など。
(おわり)
一般の人名辞書掲載レベルの俳書や俳人以外は注釈をつけていないので、ほぼ本文ですね。
次回の(5)で岩田涼菟は終り。まとめを(6)とする可能性はあり。
○第四墨なほし-「第四伊勢墨なをし」。涼菟門下の浦田蘆本編集。
○それも応-涼菟句集。
○宰陀稿本-大津の俳人宰陀編の自筆稿本。享保四年(1719)。蕉門の句を中心に四季類題別に編成。
ほぼ本文のみですが。
○枯尾花-俳諧集。其角編の芭蕉追善集。1694年(元禄7)刊。2巻。上巻は其角の《芭蕉翁終焉記》、および元禄7年10月18日に義仲寺で興行された、〈なきがらを笠に隠すや枯尾花〉を発句とした其角と大津、膳所(ぜぜ)、京都、大坂、伊賀の連衆による追善の俳諧百韻、それに上記諸国の人々の追悼発句から成る。下巻は嵐雪の墓参文、江戸における嵐雪、杉風(さんぷう)、湖春らによる追悼歌仙4巻、丸山量阿弥亭における初月忌百韻、義仲寺における六七日追悼歌仙などを収める。
○谷木因(1646~1725)-俳人。家は美濃(岐阜県)大垣の船問屋。北村季吟の門から談林風にうつり、松尾芭蕉の感化をうけて後年蕉門にはいった。80歳没。通称は九太夫。別号に白桜下、観水軒。著作に「桜下文集」など。
○連衆-連歌・俳諧の座に列する人々。
○竹内十丈(?~1723)-俳人。越中(富山県)の人。元禄9年伊勢、京都、大坂、粟津、彦根などの松尾芭蕉の高弟をたずねる。その折の句を上巻に、文通の句を下巻におさめて、14年「射水(いみず)川」を刊行した。享保8年4月2日死去。別号に間々軒。
○ダンユウ(団友)-涼菟の号。
○続猿蓑-俳諧撰集。二冊。沾圃(せんぽ)ら編。1698年(元禄11)刊。「俳諧七部集」の第七集。上巻は連句集で、「八九間空で雨降る柳かな」を立句とする芭蕉他四人の歌仙一巻をはじめとして歌仙五巻を収録。下巻は発句集で、四季部類に釈教・旅の部を加えたもの。本書は、芭蕉没後の刊行で、跋文でも明らかなように未定稿の要素が多く、支考偽撰説も出されたが、残された書簡などから、芭蕉の後見になることは疑問の余地がない。全体に『炭俵』の延長線上にあり、芭蕉晩年の「かるみ」をよく示している。
○白陀羅尼-俳諧選集。1巻。支考編。元禄十七年(1704)自序。当代美濃派の「俗談平話」の俳風を示そうとして編んだ集。
○美濃派-江戸時代の俳諧流派。芭蕉門の各務支考一派の称。その称は、支考の生国とおもな勢力圏が美濃であったことによる。獅子門ともいう。芭蕉晩年の"かるみ"や平明な日常的世界を重視し、俗談平話を唱えた。平俗な俳風をよしとしたので、俳諧を広く普及させたが、質的低下をもまねいた。岩田涼菟、麦林舎乙由の伊勢派と俳風が近似するところから、他派からは両派一括して田舎蕉門・支麦の徒と呼ばれた。