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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

神風館三世 岩田涼菟(3)

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神風館三世 岩田涼菟(3)

ほぼ本文のみですが。


元禄十二年(1699)東武行の収穫を集め、京都の轍士、金毛らの助力得て「皮籠摺(かわごずれ)」が成った。


元禄十三年(1700)歳旦帳出板「それも応是もをう也老の春」が入集(この句が後年涼菟句集の書名にとられた)また乙孝の「一幅半」が成り、それに序を与え、連中との唱和吟が入集した。九月には支考の「東華集」が刊行せられて入集。元禄十四年(1701)には、寸虎の「砂燕集」に跋を与え、また万子、支考共編の「そこの花」、舎羅撰の「荒小田」に句が入集した。


元禄十五年(1702)五月七日、近松の名作「曽根崎心中」が竹本筑後掾によって世に紹介せられた。

(備考)近松が嘗(かつ)て曽根崎心中の道行(みちゆき)文句に行詰った際、折から居合せた涼菟が談笑の間に「夢の夢こそ果敢(はかな)けれ」と指示したと伝えらる(摩訶十夜-俗耳鼓吹)


元禄十六年の秋の頃、中川乙由を伴い北越行脚に向い、山中温泉に入湯、金沢にて万子、北枝、牧童らと俳諧に興じ、それより信州に入り美濃に出で木因を訪(おとな)い、名古屋に遊び鳴海の知足亭に至った。(知足、下郷氏、酒造業の名家、蕉門)ここで芭蕉の遺品など勿論見たであろう。桑名では五桐等に迎えられ、吟懐を遣り帰庵した。五桐の「行脚戻」、素覧の「幾人水主」、牧童・支考の「草刈笛」、雲鈴の「摩詰庵入日記」等、交友間に於いて、この年撰集があり、唱和歌仙、句が入集した。


宝永元年(1704)二月、支考の「白陀羅尼(はくだらに)」が成った。蕉風に一変化を齎(もたら)した句集として注目せられ、涼菟入集した。仲春の頃、山中入湯の記録集「山中集」を編し、五月、支考と共に「三疋猿」を催した。芭蕉の遺誡「俳諧は真行草の三をはなれず」の三体を示さんため、各体百韻宛を興行、三疋の猿を使うとて三日三夜にこれがなされた。


此の年秋の月も時雨近き頃、舟にて九州に下った。十一月、一の谷、須磨、明石を経てそれより尾道、広島、厳島に至り、九州に渡り宇佐に詣で、宝永二年(1705)の新春を九州に迎え、野紅等を訪問して、夏の頃帰途に就いた。この年交友間にて九州行の記念集「しるしの竿」「中宿り」等が編まれた。


宝永三年(1706)三月、支考は京双林寺に、芭蕉の十三回忌を修したが、眼病のため不参し連句を送った。仲夏に到って去冬の広島紀行をまとめて「潮とろみ」を編した。


宝永五年(1708)春、木因の訪問を受け、秋の頃木因を訪(おと)ない、冬京に赴いた。

 

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