一般の人名辞書掲載レベルの俳書や俳人以外は注釈をつけていないので、ほぼ本文ですね。
次回の(5)で岩田涼菟は終り。まとめを(6)とする可能性はあり。
神風館の廃絶を嘆じて再興し、館主となったのはこの頃ではなかろうか。(正徳四年(1714)の第四墨なほしの当時は既に神風館主であった)その当初の所感に
神風館を再興して 今日のうへの信や福寿草(それも応)
があり、また、
神風館にうつりて 立は涼しつくはへは又□の中(宰陀稿本)
神風館初回 神かせの恭しと夕みなみ(それも応)
の吟がある。もっとも現存する遺墨の中に
名月のあるしならましすまし汁 神風館老人
があって、此句は元禄十三年(1700)乙孝の「一幅半」に入集しており、この年初老で当時の染豪とすると、館主となった年代を更に遡(さかのぼ)ることとなる。この年の歳旦帳には前記した如く「それも応云々」の句があり、老人と筆したことも考へられ、今直ちにその再興年時を明確にする資料を得ていない。
○第四墨なほし-「第四伊勢墨なをし」。涼菟門下の浦田蘆本編集。
○それも応-涼菟句集。
○宰陀稿本-大津の俳人宰陀編の自筆稿本。享保四年(1719)。蕉門の句を中心に四季類題別に編成。
正徳四年(1714)二月、京に赴き、三月更に北越行脚に向かった。門人世木曽北(神風館4世)、それに随い金沢で同好と連句を催した。ことに加賀小松河北衆、安宅の俳人連と勧進帳の人名に擬した懐旧発句。捨仙等の五月雨の歌仙が成り、里冬協力して「七五月雨集」が成った。
先達 郭公と弁慶しらぬ人はなし
兼房 諫言に今さらむせぶ麦粉かな
正徳五年(1715)の新春は、越後高田で迎えた。交友雲鈴と会して旅の興をやり、更に芭蕉奥の細道を慕うて、奥州行脚を志した。
月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也舟の上に生涯
をうかへ馬の口とらへて老をむかふる物は日々旅にして旅
を栖とす
芭蕉の名文はどれほど、涼菟の旅心をゆすぶったことであろう。しかし老の弱りと肥満した体躯を気遣はれ、雲鈴の諌止(かんし)にあって伊勢に帰ることになり、雲鈴と共に信州各地を経巡(へめぐ)り名古屋に入り五月中旬帰庵した。六月には雲鈴の「笈の若葉」が成った。雲鈴が涼菟に随行して、北越高田から若葉時の伊勢に入った記念集である。また八月には九蚶撰「糸魚川」が成った。涼菟、曽北越路行の記念集である。
享保元年(1716)三月には、北越行の唱和集「鰤俵」が竹司の手で撰せられた。その冬また大垣に木因を訪(おとな)うた。両者がいかに親交があったかが窺(うかが)われる。
旅は風雅の花の言葉そのまま、元禄九年(1696)(三十八歳)より享保元年(1716)に至る二十年間、その殆んどを風雅道の追及に行脚を重ね、伊勢風俳諧をひろめたのであった。もっともこの行脚の中には御師の代官としての職業的な檀廻(だんめぐり)も兼ねて、含まれていたのではなかろうかとも考えられる。正徳五年(1715)九蚶(きゅうかん)選「糸魚川」に
春木大夫の旅館同神明を拝して
いやましにはこぶや爰(ここ)に神の稲
が見え、また九州行の「しるしの竿」に
筑紫廻国の春をむかえて山里に生海鼠(なまこ)あり浦里に
こんにやくあり何事もとほしからす
海山に事はかゝしな四方(よも)の春
があって、檀廻らしく感ぜられる。(尤も「潮とろみ」の柴友の文には涼菟がいつも無分別な行遊と評して居る)