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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

神風館三世 岩田涼菟(2)

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神風館三世 岩田涼菟(2)

 

元禄七年(1694)八月、支考(三〇歳)が山田に寓居した。涼菟(三六歳)、之を訪(おとな)うてより両者の親交が加へられた。その十月芭蕉の訃に接し、四七日忌の頃「夢のあとたが畳しそ夜着ふとん」の句をおくって哀悼の意を表した。(枯尾花)

○枯尾花-俳諧集。其角編の芭蕉追善集。1694年(元禄7)刊。2巻。上巻は其角の《芭蕉翁終焉記》、および元禄7年10月18日に義仲寺で興行された、〈なきがらを笠に隠すや枯尾花〉を発句とした其角と大津、膳所(ぜぜ)、京都、大坂、伊賀の連衆による追善の俳諧百韻、それに上記諸国の人々の追悼発句から成る。下巻は嵐雪の墓参文、江戸における嵐雪、杉風(さんぷう)、湖春らによる追悼歌仙4巻、丸山量阿弥亭における初月忌百韻、義仲寺における六七日追悼歌仙などを収める。


元禄八年(1695)春、支考の武江(江戸)行を送り、五月には美濃(岐阜)の谷木因を迎えて、連衆(れんじゅ)と俳諧を催し旅情を慰めた。木因とは特に親密な間柄であった。元禄九年(1696)秋、越中の高岡(富山県高岡市)住竹内十丈、山田に来遊、涼菟を訪(おとな)うた。

○谷木因(1646~1725)-俳人。家は美濃(岐阜県)大垣の船問屋。北村季吟の門から談林風にうつり、松尾芭蕉の感化をうけて後年蕉門にはいった。80歳没。通称は九太夫。別号に白桜下、観水軒。著作に「桜下文集」など。
○連衆-連歌・俳諧の座に列する人々。
○竹内十丈(?~1723)-俳人。越中(富山県)の人。元禄9年伊勢、京都、大坂、粟津、彦根などの松尾芭蕉の高弟をたずねる。その折の句を上巻に、文通の句を下巻におさめて、14年「射水(いみず)川」を刊行した。享保8年4月2日死去。別号に間々軒。


元禄十一年(1698)春、歳旦帳「ダンユウ」を出板して後(の)ち、単身江戸行を志、六月三日神社港(現三重県伊勢市神社港)を船出して以来、海陸各処の風光を賞しつつ、六月十二日品川着、口遊、其角、嵐雪等蕉門名家を歴訪して俳諧に興じ、秋の頃江戸発足、帰途大垣に木因を訪問して帰庵した。旅中に京井筒屋より「続猿蓑」が出板せられ芭蕉の八九間雨柳の巻及び団友以下山田連中の句が入集した。

○ダンユウ(団友)-涼菟の号。
○続猿蓑-俳諧撰集。二冊。沾圃(せんぽ)ら編。1698年(元禄11)刊。「俳諧七部集」の第七集。上巻は連句集で、「八九間空で雨降る柳かな」を立句とする芭蕉他四人の歌仙一巻をはじめとして歌仙五巻を収録。下巻は発句集で、四季部類に釈教・旅の部を加えたもの。本書は、芭蕉没後の刊行で、跋文でも明らかなように未定稿の要素が多く、支考偽撰説も出されたが、残された書簡などから、芭蕉の後見になることは疑問の余地がない。全体に『炭俵』の延長線上にあり、芭蕉晩年の「かるみ」をよく示している。


またこの年(1698)、伊勢俳諧史上に特筆すべき「伊勢新百韻」が井筒屋より版行せられた。「凩の一日吹て居りにけり 団友」を立句とする乙由、支考、仄止、反朱、唐庭、水甫等各唱和になる百韻で、支考が嘗(かつ)て「阿難話」の序に

炭俵続猿蓑の変化にとどまりたるが、この後新百韻に詞の花さきて、白陀羅尼(はくだらに)のやすき所にぞ出てたる

と言った通り、伊勢美濃派の風調の先唱をなした集として注目せられる。

○白陀羅尼-俳諧選集。1巻。支考編。元禄十七年(1704)自序。当代美濃派の「俗談平話」の俳風を示そうとして編んだ集。
○美濃派-江戸時代の俳諧流派。芭蕉門の各務支考一派の称。その称は、支考の生国とおもな勢力圏が美濃であったことによる。獅子門ともいう。芭蕉晩年の"かるみ"や平明な日常的世界を重視し、俗談平話を唱えた。平俗な俳風をよしとしたので、俳諧を広く普及させたが、質的低下をもまねいた。岩田涼菟、麦林舎乙由の伊勢派と俳風が近似するところから、他派からは両派一括して田舎蕉門・支麦の徒と呼ばれた。


 

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