三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
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○可児才蔵(1554~1613)-織豊-江戸時代前期の武将。前田利家、のち福島正則につかえる。関ケ原の戦いで葉竹を背標に功をたて、笹の才蔵」と称された。60歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。名は吉長。
○麦雨斎吏舡-杉木吏舡(1749~1819)。一志久保の神官。俳諧をよくした。
○一斗庵逸漁-辻村逸漁(1741~1797)。河崎の廻漕問屋。俳人で、三浦樗良と親交があった。
○和歌水(若水)-元旦に汲み、年神への供え物や家族の食事を調えるのに用いる水。これを飲むと一年の邪気を払うとされ、福茶をたてて家族一同で飲んだりもする。初若水。 [季] 新年。
○八専-日の干支が壬子(甲子から数えて49番目)から癸亥(同60番目)の間の12日間の中に干、支ともに同じ五行となるものが壬子、甲寅、乙卯、丁巳、己未、庚申、辛酉、癸亥と8日あるため八専と総称されている。
重なる日は全部で12日あるが、この期間に集中している。逆にその期間には同気の重ならない4日を「八専の間日(まび)」と言う。この間日を除く八専の日は吉はますます吉となり、凶はますます凶となるとされた。
神風館十二世 丸井木蓊まとめ
・延享二年(1745)、出生(逆算)。西村氏に生まれる。大江氏を称し、丸井家を継いだが、後大江氏に復した。初称金右衛門、通称清大夫、号は柿山荘。
・享和初年(1801、57歳)、寸大から神風館号を嗣ぐ。
・文化四年(1807、63歳)二月二十九日没。
・文化四年(1807)十月二十日、寸大没。82歳。
○かもし(かもじ)-加文字とも書く。髪文字の略。女性が日本髪を結うとき頭髪に補い添えるための髪。
○ひき鶴(引き鶴/引鶴)-春、北方へ帰って行く鶴。帰る鶴。 [季] 春。
神風館十一世 野笹寸大まとめ
・享保十一年(1726)出生、野笹氏(野篠)、本名秀雄、通称六右衛門、後ち魯久助、茗荷園と号した。田中中世古(本町)住、神楽職、御師の代官。
・寛政十年(1798、73歳)八月二日、神風館十世足代弘臣が没し、十月に神風館を継ぐ。(本文には76歳とある)
・享和初年(1801、76歳)、神風館号を木蓊に譲る。
・文化四年(1807、82歳)十月二十日没。
○逸漁-辻村逸漁(1741~1797)。河崎の廻漕問屋(運送業)、辻村家の三代目当主。俳人で、三浦樗良と親交があった。
○坡仄-野間坡仄(1724~1801)。伊勢妙見の人。樗良門の俳人。萬金丹本舗野間家の番頭で、その姓を称した。洗粉(化粧品)を家業とした。
○二曲-松貴文寿(1735~1804)。伊勢浦口の人。俳号夜雨亭二曲。芭蕉に私淑して奥の細道をたどった。中年に手足不随の病気になり、閑居して俳句に慰むこと三十余年、衆に推されて宗匠となり、夜雨亭の始祖となった。
○潦(にわたずみ)- 雨が降って地上にたまったり流れたりする水。
神風館十世 足代弘臣まとめ
・宝暦元年(1751)出生、通称勝大夫、町年寄役、宮後町住、篁亭と号した。
・安永四年(1775、25歳)六月、弘氏の句を立句として「俳諧門のすゝみ」を編集。
・安永五年(1776、26歳)、歳旦帳。
・天明四年(1784、34歳)か天明五年(1885)初、9世洗利死去。
・天明五年(1785、35歳)三月、神風館を嗣ぐ。記念集「華をはしめ」発刊。
・寛政九年(1797、47歳)、歳旦帳。
・寛政十年(1798、48歳)八月二日没。(『みもすそ』には49歳)。
○ゆふたすき(木綿襷)-木綿(ゆう)で作ったたすき。神事に奉仕するときに用いる。
(おわり)
○はつ鴉-元日、ことに早朝に鳴く、または見る烏。 [季] 新年。
○いへつと(家苞)-いえづと。わが家に持ち帰るみやげもの。
神風館九世 松尾洗利まとめ
・生年不明。大世古の人。名は政屋。通称は善五右衛門。号は無事庵。
・寛延二年(1749)幾暁の「百合野集」の俳句が初出。
・寛延三年(1750)の「蝉のから」の入集が二回目。
・安永四年(1775)四月、八世入楚が死去し、九世を継いだと思われる。
・天明四年(1884)自からの歳旦集「青帝帖」。
・天明四年(1884)か天明五年(1885)のはじめに死去。