十三世 笹丘高
宝暦六年(1756)出生、父順武、母木山氏、姓平、諱氏貞、字馬亭、
俗称司馬、木枯庵(凩庵、古雅良史庵)の号があり、一之木に住
し医を業とした富家であった。
笹氏の由来に就いて伝えられるところによると、広島矢賀の
武士、可児才蔵(笹の才蔵)の裔であるという。父順武は俗称
武蔵、一得斎と号し、笹才蔵政信八世の孫に当り、享保十二年
要信流を学び活殺の術を会得した。又久居の幽思斎の門に入り、
居合新心流の伝授を受け、笹一流の武芸をあみ出し、多くの門人
を有し、旁々外療をも善くした。長男氏貞即ち丘高、二男順清
(先没)、三男順信は妙見町(尾上町)坂口家を継ぎ、不及と号した
俳人であり、またみづからも取友と号して俳句を嗜み、丘高の
集に遺詠を見せて居る。
○可児才蔵(1554~1613)-織豊-江戸時代前期の武将。前田利家、のち福島正則につかえる。関ケ原の戦いで葉竹を背標に功をたて、笹の才蔵」と称された。60歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。名は吉長。
偖(さ)て丘高は、少壮時から俳道に志し、無為庵樗良門に属した。
安永六年(1777)春の「花なぬ香」に
客殿やさくら吹ちる経机
の一句入集が初期の作品で、師没後自立研鑽、一家を成した。文
化九年(1812)十一月、樗良三十三年忌に際し
月雪や身にしむ恩のたゝならす 丘高
の手向吟を成して師恩に報じた。(男天口編、丘高集稿本)
天明七年(1787)如月、弟不及、世古似蓉、岩出禾石等数名協力して
朝熊山に芭蕉の涅槃塚を建立し、文化九年(1812)九月、足代家より襲号
の許可を得て神風館十三世主と成った。「十三夜」はその当時
の記念集で、「十三夜我つたうへの月清し」の所感吟を載せて居
る。
丘高の活躍期は実に郷土俳壇の最盛時であった。各俳壇は競
ふて年並慶春の帖を板行して、その社中の力作を発表した。そ
の主なるものに神風館歳旦帳、麦雨斎吏舡の伊勢歳旦、一斗庵
逸漁の陽春曲、麻斎東陽の歳華帖、嵐洲の古雅堂歳旦、竜石
のあかざ庵歳旦帖、野村左涯の太古盧春帖、春草紙等々の集冊に
花下亭の守武祠句集が出るなど各々映発絢爛多彩を極めた。
○麦雨斎吏舡-杉木吏舡(1749~1819)。一志久保の神官。俳諧をよくした。
○一斗庵逸漁-辻村逸漁(1741~1797)。河崎の廻漕問屋。俳人で、三浦樗良と親交があった。
丘高は天明年間(1781~1789)よりその没に至る迄、年毎に社中の吟を集録し
て、春帖(木枯庵歳旦、歳旦、はるのこと、春事帖)を板行し
て、その努力振を示した。拙蔵の原本、写本十数冊中から、一
二句例を示すと
和歌水やかくもにこらぬとしの相 (天明八年)
元日の鄙にうれしき古実かな (寛政十二年)
二日たち三日たちたゝのことし哉 (寛政十二年)
元日や人にむまれて伊勢の国 (文化五年)
(注)丘高遺筆に見ゆる「入とむまれて」は後案によるもの
と思う。
文化十二(1815)年六十歳の春には、「六十は凡夫にかえる今朝のは
る」と所感を述べ、この年の春帖は自祝の意味に於て編まられ、
特に「南山春事帖」と題した。その中に
石山は弓手に高し朧月 一茶
の句が入集して居るのが見遁せない。
○和歌水(若水)-元旦に汲み、年神への供え物や家族の食事を調えるのに用いる水。これを飲むと一年の邪気を払うとされ、福茶をたてて家族一同で飲んだりもする。初若水。 [季] 新年。