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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

神風館十世 足代弘臣

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神風館十世 足代弘臣

 

十世 足代弘臣

宝暦元年(1751)出生、通称勝大夫、町年寄役、宮後町住、篁亭と号
した。
 勝大夫家は、権大夫家より分立一家を成し、天正年間の弘興
の子、孫八郎を家祖とすと伝えらる。遠く弘氏縁の家系を以
て、天明五年(1785)三月、衆におされて神風館を嗣いだ。その記念集に
「華をはしめ」一巻がある。
 当時樗良の正風復古の後をうけて、俳壇頓に活気を呈し、宇
治の花下亭、春秋亭、百松舎連をはじめ、川崎の逸漁、南河の
太古盧連中、丘高(神風館13世)の凩庵、坡仄(はそく)の隠岡連、宗居の白菊庵、四鵲
のあかざの月次、吏舡の麦門月次、二曲の夜雨連、魯石の清友
館、之徳の古雅堂、諷居の大観舎等、各結社、研を競う中に、幾望、
万春、秋水、禾石、徐来、敬之、素平、寸大(神風館11世)等三十余名の館友
を率い、華々しく俳壇に進出した。安永四年(1775)六月、弘氏の遺筆
「宇宙に覆ふ蚊帳かな門すゝみ」により、これを立句として、
交友と唱和吟を催し、涼みの句を乞い得て「俳諧門のすゝみ」の
一巻を編集して世に問うたのをはじめ、その後、丙申(1776)歳旦、人日
春興(仮)、花をはじめ、寛政九年(1797)歳旦帳等の編著があった。

○逸漁-辻村逸漁(1741~1797)。河崎の廻漕問屋(運送業)、辻村家の三代目当主。俳人で、三浦樗良と親交があった。
○坡仄-野間坡仄(1724~1801)。伊勢妙見の人。樗良門の俳人。萬金丹本舗野間家の番頭で、その姓を称した。洗粉(化粧品)を家業とした。
○二曲-松貴文寿(1735~1804)。伊勢浦口の人。俳号夜雨亭二曲。芭蕉に私淑して奥の細道をたどった。中年に手足不随の病気になり、閑居して俳句に慰むこと三十余年、衆に推されて宗匠となり、夜雨亭の始祖となった。



 

 寛政十年(1798)八月二日没、四十九歳。
 墓所 宮後桜堂
 碑面 故権禰宜正四位下度会弘臣主墓

 先春のいろや薺の青雫 (真蹟)
 行水や石に子をする鮎の痩 同
 雪けしき都の空も年くるゝ 同
 待となく暮をわすれぬ門すゝみ (安永四年(1775)門すゝみ)
 むら雨や月はうつりし潦 (天明五年(1785)良夜作)
 篁のみち行ぬけて梅の花 (寛政五年(1793)ひとはな集)
 松杉に曙くらし神の春 (寛政九年(1797)歳旦帳)

○潦(にわたずみ)- 雨が降って地上にたまったり流れたりする水。

 




神風館十世 足代弘臣まとめ

・宝暦元年(1751)出生、通称勝大夫、町年寄役、宮後町住、篁亭と号した。
・安永四年(1775、25歳)六月、弘氏の句を立句として「俳諧門のすゝみ」を編集。
・安永五年(1776、26歳)、歳旦帳。
・天明四年(1784、34歳)か天明五年(1885)初、9世洗利死去。
・天明五年(1785、35歳)三月、神風館を嗣ぐ。記念集「華をはしめ」発刊。
・寛政九年(1797、47歳)、歳旦帳。
・寛政十年(1798、48歳)八月二日没。(『みもすそ』には49歳)。

 

 

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