九世 松尾洗利
本名政屋、通称善五右衛門、大世古住、無事庵と号した。
管見の範囲に於ける句の初見は、寛延二年(1749)幾暁(楠部、梅真
院の僧、支考・乙由門)の「百合野集」に
洗濯も御祓の裾やゆふたすき
に次いで、寛延三年(1750)の「蝉のから」入集の「花畑の留主たしか
なり水仙花」であらう。
其後は各集に名を列ね、殊に松阪の吹柳館斗墨とは親交あっ
たらしく、斗墨の俳集には欠かさず句を寄せて居る。
明和五年(1768)入楚の「備忘」及び明和九年(1772)の豹林の「草のふる根」
に無事庵洗利と見え、安永五年(1776)弘臣「丙申歳旦」に
声つゝく夜かな夜一よ帰雁 神風館 洗利
と初めて、神風館を表示して居る。前年の安永四年(1775)四月八世入
楚の没により、神風館を襲号したものであろう。
○ゆふたすき(木綿襷)-木綿(ゆう)で作ったたすき。神事に奉仕するときに用いる。
天明四年(1884)には自からの歳旦集「青帝帖」を編して
御敷地や神世のまゝのはつ鴉 神風館 洗利
を巻頭に飾った。社中に籬石、呉々、羊我、茶子等十数名を有
して一方の中堅俳子であった。
没年に就いては、未だ明らかでないが、天明四年(1884)を境として
その後の山田の俳集及び、松阪の斗墨の俳書の上に、洗利の名
が消へて居るのみならず、天明五年(1885)三月に足代弘臣が、神風館
を継承して居る事実から考察して、この間に没去したものであ
ろうと推定する。
なほ洗利の伝記資料は甚だ少ないが作品を見ると、相当精進
したらしく、洗練された佳什を遺して居る。またその筆蹟短冊
の存すること極めて稀で、この種蒐集家間には、非常に珍重視
されて居る。
二見かた真珠や化して飛ほたる (真蹟)
香にふるゝ袖ゆたかなり松の花 同
雨になる暮見すゑたる柳かな 同
芹薺鳥居をめくる水の末 (宝暦二年(1752)大神宮奉納)
ほうらいにいへつと多し親子草 (宝暦六年(1756)并梅館賀帖)
藪そひに裾をからけて梅見かな (明和五年(1768)備忘)
けし畠や裏から通ふ隣同士 (天明二年(1782)夏句集)
花雪も住む人にこそ山高し (天明三年(1783)四山集)
雛の座や上段下たん桃柳 (天明三年(1783)春句集)
こからしや空に吹とる三井のかね (天明三年(1783)冬句集)
(おわり)
○はつ鴉-元日、ことに早朝に鳴く、または見る烏。 [季] 新年。
○いへつと(家苞)-いえづと。わが家に持ち帰るみやげもの。
神風館九世 松尾洗利まとめ
・生年不明。大世古の人。名は政屋。通称は善五右衛門。号は無事庵。
・寛延二年(1749)幾暁の「百合野集」の俳句が初出。
・寛延三年(1750)の「蝉のから」の入集が二回目。
・安永四年(1775)四月、八世入楚が死去し、九世を継いだと思われる。
・天明四年(1884)自からの歳旦集「青帝帖」。
・天明四年(1884)か天明五年(1885)のはじめに死去。