三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
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其角の序のところはよくわかりません。
三世 岩田涼菟(いわたりょうと)
万治二年(1659)出生、本名正致、幼名又次郎、通称権七郎、団友斎と号し、一志町その他に住した。伊勢に於ける芭蕉門として知られ、家職は御師の代官であったと伝えられる。
俳道に入ったのは少壮時で、二十四歳の天和二年(1682)、中田心友撰「御田扇」に二十句入集すると言われ、これが句の初見であろう。ついで貞享二年(1685)、一有撰「あけ鴉」に、団友号で「須摩の浦かんこ鳥鳴く夕哉」の一句入集が最も初期の作品と思はれる。
(注)心友「御田扇」は、現在その伝本の存することを聞かないが、安永五年(1776年)妙見町(尾上町)の黒部杜什が、涼菟句集「それも応」を校訂した時、「御田扇」を以て句の出所を附記して二十句を挙げ、また津の生川春明が俳家大系図の編集に際しても該書を参考としている。
○中田心友-(生没年不明)江戸時代前期の俳人。岸本調和の門人。伊勢神宮の御師か。一時江戸にすみ、延宝7年(1679)調和、高野幽山、池西言水らと連句を唱和し、翌年「江戸宮笥(みやげ)」として刊行した。通称は次右衛門。
何時頃芭蕉門に入ったであろうか、元禄十二年(1699)、涼菟自選「皮籠摺(かわごずれ)」に於ける其角の序に
涼菟、先師につく事かの文台の二見形に扇を画(かか)せ、岩の面を硯として蛤(はまぐり)に潮を汲(く)みけん古意をとりて、千とせの杉をいだくこと嵐も霜もふりかはれど、其名朽(くち)せざるをや。こゝに明暗をしれり。
とあって、芭蕉伊勢参宮の時であったらしいが、その当時の記録には涼菟の名が見えない。従って入門の年時は判然としない。
○文台の二見形-よくわかりませんが、芭蕉が持っていた机のようです。二見形文台。
元禄三年(1690)既に雑俳の点者として名が聞えていたが芭蕉との関係を知る資料としては、山崎喜好氏著「芭蕉と門人」所収「許六をめぐりて」の文中に、元禄七年(1694)夏、許六・野坡(やば)等などが膳所無名案に滞在中の芭蕉を訪問した時、芭蕉は嵐雪、北枝、如柳、涼菟の句を挙げて、涼菟の「木がらしの一日吹きて居りにけり」等に就き「かゝる大道の句は得がたき事也。渠(これ)等は上手なり」と称誉した(許野せうそこ)と見えている。此句を立句(たてく)とした百韻は、元禄十一年(1698)京井筒屋から梓行せられて周知の通りで、芭蕉との交渉は要するに芭蕉の晩年に於いてなされたものと推測せられる。
○立句-俳諧の連句で、第1句。単独に作られる発句(ほっく)と区別していう。
とりあえず椿堂の前に神風館も。
二世はこれで終りですが、三世は有名な岩田涼菟なので結構長いです。
二世 足代弘員(ひろかず)
明暦三年(1657)出生、弘氏の嗣、通称民部、助之進、権太夫、寛文三年(1663)四月三日叙爵、天和元年(1681)正五位下、貞享四年(1687)四月二十八日従四位下に叙せられ宮後町西河原に住した。
父の薫陶(くんとう)を享(う)け連歌、俳諧の道に進み、雪堂の号があり(笈の小文)また胡来とも伝えられた(笈日記)。
○笈の小文-俳諧紀行。松尾芭蕉著、門人河合乙州(おとくに)編。芭蕉の没後、1709年刊。1687年江戸から尾張の鳴海を経て弟子の杜国を訪ね、伊賀・伊勢・吉野・奈良・大坂・須磨・明石をめぐった旅の紀行。「野ざらし紀行」から「おくのほそ道」に至る中間的な性格を示す。
○笈日記-俳書。三巻。各務支考編。1695年刊。「笈の小文」の遺志をつぐ意の書名。松尾芭蕉の遺吟・遺文を収め,芭蕉臨終の前後が日記風に詳しく記されている。
元禄元年(1688)春、芭蕉この地に遊歴の時弘員を訪(おとな)い
梅の木に猶やどり木や梅の花
の吟があった。これは弘氏、弘員父子の風流を賞賛したものと伝えられ、弘氏没して既に五年後のことであった。「宗因なくんば我々の俳諧今以(いまもって)貞徳の涎(よだれ)をねぶるべし」と去来抄にある芭蕉の言を信として考えれば、弘員と対談のうちにも、宗因を想い、弘氏の俳才を偲び、その俳風を享けた弘員に接しての感懐は、尋常なものではなかったろう。事実、その後芭蕉は書道の師、北向雲竹と京の富山左柳宛に消息して、此の間網代(足代)民部の子息に逢ったことを述べ、梅の木の吟を挨拶としたと報じている。
弘員関係資料の存するもの非常に少なく、俳壇への進出程度は判然としない。その時代の俳集の上に於いても作品に接すること極めて稀である。今少なき遺作を通してみるに、いづれも堂々たる力量を示し、確かに一風格を備えていたらしく感ぜられるが、元禄中葉期には殆ど動静が不明である。
享保二年八月二十三日没 六十一歳
墓所 宮後町桜堂 碑面 正四位下度会弘員神主
神風館二世 足代弘員まとめ
外宮神官。一世弘氏の子。明暦3年(1657)生まれ。宮後町西河原住。通称民部、助之進、権太夫。号に雪堂、胡来。元禄元年(1688)春、芭蕉遊歴の際に弘員(32歳)を訪れ、5年前に亡くなった弘氏とともに父子を賞賛する句を詠む。俳句集等に名はあまり見られない。享保2年(1717)没、61歳。
家に大量にある今まで不明だった短冊を、耕雨の弟子が入っていないかな、と思ってめくっていると、香石に関する短冊がでてきました。
香石は例の点取り俳諧資料の所持者、浦村香石です。
香石の短冊ではないのですが、香石が竹川という姓を継いだことを祝う題の物が複数見つかりました。
どうやら途中から浦村から竹川に改姓したようです。
で、竹川って、あの竹川竹斎で有名な竹川家と関係あり?とちょっと思いました。
そういえば以前にも書いた俳誌『神路』に香石は投稿しており、作者名は「山田 香石」のように書かれています。これを見て住所が山田からあの竹川家のある斎宮などと変わっていないか調べてみました。
うーん、山田のままでした(笑)。
掲載の場所によっては「竹川香石」と書かれているので、改姓後でも山田だったことがわかります。
○神路
この俳誌『神路』は前も書いたかもしれませんが、手持ちの物は昭和5年9月~昭和8年12月の45~81号のうち30数冊で、81号で休刊となっています。
しかしこの雑誌を見ている結構いろいろなことがわかりそうです。
例えば、パラパラっとめくっているだけでも、
・一時文珠会を主宰した渡辺呂竹のこと。呂竹は『神路』の編集者ですが、出版の途中で亡くなっているので没年他、状況がわかります。追悼文や追悼俳句募集などあります。
・河崎天王祭りの俳句募集。耕雨没後の同門会の主宰者、久保田秋雨が中心となっています。
・秋雨の俳諧古跡収集の師で、もしかすると伊勢と関係が深く、互選方式を伊勢に広めた?伊藤松宇の名前もあちこちに見えます。
その他、耕雨没後の有力俳人、県外の宗匠とのかかわり、もちろん俳人の名前は多数収録されています。耕雨に俳諧をならった門人達の時代のことが新たに色々わかりそうです。
○浜田椿堂
浜田椿堂は『神路』の宗匠の1人だったので、調べて行けば判明することも多そうだな、と思いました。
で、三重県出身の俳諧に関する研究で有名な岡本勝先生の遺稿集『俳文学こぼれ話』に椿堂のことが書いてあり、浜田椿堂を調べる時に読もうと思っていたんですが、先にざっと目を通してみました。
すると私が知らない資料がいくつかあるようでした。
三世椿堂がいた、という資料があったり。読むまで三世の存在は知りませんでした。
ただ、県外のため私の持ってるような資料があまりなく、結構間違いも多いようです。
なので私の資料と合わせれば結構浜田椿堂のことがわかりそうなので、ちょっと調べてみたいな、と。
存命であればこの資料を提供して研究、出版していただきたかった所ですが、残念です。
うーむ。神風館はかなり時間かかりそうだし、本読んでるだけで新しいことはわからないし。
かといって『神路』は冊数が多いし俳人の名前も多いので、調べるとやっぱり時間かかりそう。
ということで、神風館読みながら、浜田椿堂のことだけ調べようと思います。
『神路』も椿堂のところだけ。
あと、神風館についてですが、伊勢市立郷土資料館(もう無いです)発行の「神風館」という展示の目録が手持ちにあります。
これ見ると初代~20世まで全員の肉筆資料が載ってますね。すごい。
短冊や掛軸の中には「神風館」としか書かれていないものもあるのでどうしようかと思っていたんですが、この本を見て筆跡から何世なのか確かめられそうです。
一世はこれで終り。
弘氏の名声はただに一地方に於いてではなく、ひろく喧伝され、点者の位置を占めて居た。故石田元季氏の俳文学論考所収「尾陽鳴海俳諧喚続集」(延宝七年(1679)稿本)に、点者として山田神風館の名が見えるとあり、この神風館は弘氏を指すものと推断して誤りなかろう。またこの先の延宝四年(1676)井原西鶴撰の「俳諧師手鑑」に彼の門すゝみ、吟の筆跡を載せていることも、その声価が高かったことを証することが出来よう。正徳五年芭蕉の末弟森川許六が、その著〔歴史滑稽伝」に
伊勢足代弘氏は神職の人なり、談林の時上手の名あり
郭公きゝは聞たかほととぎす
寝ているても夏さむるても夏
百韻の附味句作り宗因に等し
ちょ賞賛してその名を伝へて居る。とも角地方俳史上傑出した一偉材であった。
天保三年八月十八日没 四十四歳
墓所 宮後町桜堂 碑面 従四位下度会弘氏
(俳句略)
神風館一世 足代弘氏まとめ
外宮神官。寛永17年(1640)檜垣家に生まれ足代家に養子に入った。
俳人としては万治2年(1659、20歳)の時に文献に句が見えるのが最初。延宝3年(1675、36歳)あたりから色々な句集に名が見え、活躍する。
神風館の号は、初代久居藩主藤堂高通(俳号は任口)が、外宮の弘氏の宿所に「神風館」と命名し、扁額を与えたことによる、と伝わる。
俳句は談林風。西山宗因が延宝四年(1676、37歳)に伊勢に来て1か月滞在し、連日俳諧を催し、弘氏も参加している。
天和3年(1683、44歳)没。
初代は次の(3)で終わりです。正直なところ、始めの方の代は全然市場には品物が出てこないので、さらっと行きたいところです。一世から十ニ世あたりまで、有名な三世岩田涼菟を除き、品物どころか名前すらあんまり聞いたことない人ばかりだったりします。品物が出てくるのは13世笹丘高あたりからです。
弘氏は当時俳壇を風靡(ふうび)して居た貞門に慊(あきた)らず、高向光如、中田心友、竜熙快、浦田正相、笠井正尚、為田常行、田村勝延らと謀って、談林調を導入して清新な作風を鼓吹し、郷土俳壇に一異彩を放った。「伊勢の通し駕」「伊勢杉のむら立」等は、その結社の代表撰集であった。これらの集にみる発句の一二を挙げてその風調を示すと
(俳句略)
思い切っての奇想な飛躍振であった。
延宝時代は彼の活躍期で延宝三年(1675)重徳の「新続独吟集」、同年高政の「絵合」、同四年(1676)の汲浅の「渡奉公」、同八年(1680)黄誉の「白根草」、天和元年(1681)兼頼の「熱田宮雀」等々に入集して堂々たる一家を示した。
○重徳-寺田重徳(じゅうとく)(生没年不詳)。江戸時代前期の俳人。高瀬梅盛一門。京都寺町で俳書の出版業をいとなみ、「俳諧独吟集」「俳諧塵塚」などを編集、出版した。京都出身。通称は与平次。別号に蘭秀子。屋号は菱屋、俳書堂。
○高政-菅野谷高政(すがのやかたまさ)(生没年不詳)。江戸時代前期の俳人。京都の人。西山宗因にまなび、京都談林派の中心人物となる。延宝7年(1679)「中庸姿(つねのすがた)」をあらわしたが、貞門の中島随流にその新奇な俳風を批判され、貞門と談林の間に論争をひきおこした。通称は孫右衛門。別号に惣本寺、伴天連社。編著に「誹諧絵合」、著作に「是天道(これてんどう)」など。
○黄誉の「白根草」-ネットには神戸友琴編纂とある。黄誉は友琴の別号?
神戸友琴(1633~1706)は江戸時代前期の俳人。寛永10年生まれ。北村季吟にまなぶ。生地の京都から加賀金沢にうつり、和菓子商をいとなむかたわら俳諧をおしえ、加賀俳壇に重きをなした。通称は武兵衛。別号に幽琴、幽吟、山茶花、識趣斎。編著に「白根草」「金沢五吟」「色杉原」など。
固より山田の名門、檜垣家の出であり、神職として相当の学を修め、古典文芸に意を染めていたらしく、その遺吟をみると
木からしにふきあわすめり炬燵の火
申さぬか雪まちとをに有し松
源語(※源氏物語)、古今集あたりの古歌取りであろう。また窓月兄の珍蔵、神風館伝来の短冊に
水海月沢辺の蛍かけよりか
があり、新千載集よりの取材であろうが、直接には謡曲「葵上」の詞草を捉え来たって、俳諧化したことが頷(うなず)かれる。
○木からしに~-『源氏物語』第二帖帚木の和歌「木枯に吹きあはすめる笛の音をひきとどむべき言の葉ぞなき」を踏まえる。意味は、木枯らしの音に吹き合すような炬燵の火が音をたてている、といった感じか。
○申さぬか~-『古今和歌集』271大江千里の歌「うへし時花まちとをにありし菊うつろふ秋にあはんとや見し」を踏まえる。「まちとおに」は、待ち遠しくの意。意味は、何も言わないが雪を待ち遠しくしているように見える松である、といった感じか。
○水海月~-『新千載集』後宇多院「夜光る玉とぞ見ゆる水くらき芦辺のなみにまじる蛍は」、またはその歌を本とする謡曲「葵上」「暗き沢辺の、蛍の影よりも、光る君とぞ契らん」を踏まえる。意味は、沢辺の蛍を見ていると、その光に照らされてミズクラゲがあらわれた、といった感じか。
謡曲を俳諧に取り入れたのは、貞門にも窺(うかが)われるが、特に宗因の一派に著(いちじる)しかった。正に「謡は俳諧の源氏」であり、当時謡曲の民衆化の反映であった。尤もそうした例はこの時に始まったのではなく、既に守武千句に先蹤(せんしょう)が見られ、ただその取扱い方が異っていたのみである。