三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
とりあえず椿堂の前に神風館も。
二世はこれで終りですが、三世は有名な岩田涼菟なので結構長いです。
二世 足代弘員(ひろかず)
明暦三年(1657)出生、弘氏の嗣、通称民部、助之進、権太夫、寛文三年(1663)四月三日叙爵、天和元年(1681)正五位下、貞享四年(1687)四月二十八日従四位下に叙せられ宮後町西河原に住した。
父の薫陶(くんとう)を享(う)け連歌、俳諧の道に進み、雪堂の号があり(笈の小文)また胡来とも伝えられた(笈日記)。
○笈の小文-俳諧紀行。松尾芭蕉著、門人河合乙州(おとくに)編。芭蕉の没後、1709年刊。1687年江戸から尾張の鳴海を経て弟子の杜国を訪ね、伊賀・伊勢・吉野・奈良・大坂・須磨・明石をめぐった旅の紀行。「野ざらし紀行」から「おくのほそ道」に至る中間的な性格を示す。
○笈日記-俳書。三巻。各務支考編。1695年刊。「笈の小文」の遺志をつぐ意の書名。松尾芭蕉の遺吟・遺文を収め,芭蕉臨終の前後が日記風に詳しく記されている。
元禄元年(1688)春、芭蕉この地に遊歴の時弘員を訪(おとな)い
梅の木に猶やどり木や梅の花
の吟があった。これは弘氏、弘員父子の風流を賞賛したものと伝えられ、弘氏没して既に五年後のことであった。「宗因なくんば我々の俳諧今以(いまもって)貞徳の涎(よだれ)をねぶるべし」と去来抄にある芭蕉の言を信として考えれば、弘員と対談のうちにも、宗因を想い、弘氏の俳才を偲び、その俳風を享けた弘員に接しての感懐は、尋常なものではなかったろう。事実、その後芭蕉は書道の師、北向雲竹と京の富山左柳宛に消息して、此の間網代(足代)民部の子息に逢ったことを述べ、梅の木の吟を挨拶としたと報じている。
弘員関係資料の存するもの非常に少なく、俳壇への進出程度は判然としない。その時代の俳集の上に於いても作品に接すること極めて稀である。今少なき遺作を通してみるに、いづれも堂々たる力量を示し、確かに一風格を備えていたらしく感ぜられるが、元禄中葉期には殆ど動静が不明である。
享保二年八月二十三日没 六十一歳
墓所 宮後町桜堂 碑面 正四位下度会弘員神主
神風館二世 足代弘員まとめ
外宮神官。一世弘氏の子。明暦3年(1657)生まれ。宮後町西河原住。通称民部、助之進、権太夫。号に雪堂、胡来。元禄元年(1688)春、芭蕉遊歴の際に弘員(32歳)を訪れ、5年前に亡くなった弘氏とともに父子を賞賛する句を詠む。俳句集等に名はあまり見られない。享保2年(1717)没、61歳。