三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
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一世はこれで終り。
弘氏の名声はただに一地方に於いてではなく、ひろく喧伝され、点者の位置を占めて居た。故石田元季氏の俳文学論考所収「尾陽鳴海俳諧喚続集」(延宝七年(1679)稿本)に、点者として山田神風館の名が見えるとあり、この神風館は弘氏を指すものと推断して誤りなかろう。またこの先の延宝四年(1676)井原西鶴撰の「俳諧師手鑑」に彼の門すゝみ、吟の筆跡を載せていることも、その声価が高かったことを証することが出来よう。正徳五年芭蕉の末弟森川許六が、その著〔歴史滑稽伝」に
伊勢足代弘氏は神職の人なり、談林の時上手の名あり
郭公きゝは聞たかほととぎす
寝ているても夏さむるても夏
百韻の附味句作り宗因に等し
ちょ賞賛してその名を伝へて居る。とも角地方俳史上傑出した一偉材であった。
天保三年八月十八日没 四十四歳
墓所 宮後町桜堂 碑面 従四位下度会弘氏
(俳句略)
神風館一世 足代弘氏まとめ
外宮神官。寛永17年(1640)檜垣家に生まれ足代家に養子に入った。
俳人としては万治2年(1659、20歳)の時に文献に句が見えるのが最初。延宝3年(1675、36歳)あたりから色々な句集に名が見え、活躍する。
神風館の号は、初代久居藩主藤堂高通(俳号は任口)が、外宮の弘氏の宿所に「神風館」と命名し、扁額を与えたことによる、と伝わる。
俳句は談林風。西山宗因が延宝四年(1676、37歳)に伊勢に来て1か月滞在し、連日俳諧を催し、弘氏も参加している。
天和3年(1683、44歳)没。