三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
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〇竹部涼袋-竹部綾足(1719~1774)。江戸時代中期の国学者、俳人、画家。享保4年生まれ。20歳のとき郷里の陸奥弘前を出奔、ほとんど全国を遊歴。はじめ伊勢派の俳諧宗匠として活動、また長崎で絵画をまなび寒葉斎の画号で一家をなす。宝暦13年賀茂真淵に入門、俳諧をすてて19音の片歌説をとなえ、片歌道守の称号をえる。晩年「西山物語」「本朝水滸伝」などの読み本をあらわした。安永3年3月18日死去。56歳。本姓は喜多村。名は久域(ひさむら)。俳号は涼袋。
〇雪折-樹木が降り積もった雪の重さに耐え かねて折れること。季節:冬。
○あふぬいて(あおぬいて)-仰向いて。
○香良洲神社-三重県津市香良洲町にある神社。町名の由来となった。天照大御神の妹神とされる稚日女命(わかひるめのみこと、天稚日女命とも)を祀る。このため「お伊勢詣りをして加良須に詣らぬは片参宮」と言われ、年中参拝者が絶えなかったという。また、社務は山田三方の上部家が預かっていた。
○麦浪-中川麦浪。乙由(麦林)の子。父の句集「麦林集」を刊行,「秋のかぜ」「梅のしづく」「夏の白根」などを編んだ。明和5年(1768)8月18日死去とつたえられる。別号に麦浪舎、杜十(什)、杜菱(とりょう)。
○正珍-杉木正珍。伊勢山田の人。秦姓。織部・宇兵衛・勘右衛門と称す。享保6年(1721)歿、84才。
○浦田蘆本(1664~1736)-山田の俳人。岩田涼菟の門下。編著に師の追善集「其暁(そのあかつき)」のほか,「第四伊勢墨なをし」などがある。通称は藤兵衛。別号に葎門亭,東向斎。
「神風館三世」のところに既出。宝永元年(1704)に豊後で師の涼菟と偶然出会う。
(おわり)
・延宝八年(1680)生まれ。本名邦光、通称権右衛門、号は不断斎。一志町(現津市一志町)などに住した。
・涼菟に入門する。
・正徳四年(1714、35歳)三月末、涼菟に従って北陸方面へ旅行。京都、石川県を経て新潟県で正徳五年(1715、36歳)を迎え、長野を巡り、名古屋へ寄って帰郷。
・享保二年(1717、38歳)涼菟没後は、中川乙由(麦林)と交流。
・享保十三年(1728、49歳)麦林門下による威勝寺(※伊勢市辻久留)での大連句会に参加。その直後に乙由、茂秋と三人で二ヶ月の京都旅行へ。京都書肆など各人と俳諧し、野の宮に詣で、祇園会を拝観し、広沢池に夏の観月を催すなど。
・あかざの月次会を興し、その中心となって後進を導いた。
・寛保二年(1742、63歳)病気になり、門人の建てた小庵に移り住んだ。
・寛保三年(1743、64歳)二月五日、死去。
・神風館を継いだ時期は不明。涼菟没後の享保二年(1717、38歳)からかなり後だと思われる。
・住所は特定の場所に定住しなかったので不詳。「三日月庵」の句から妙見町(伊勢市尾上町)にその一所があったと思われる。
○白大夫(しらだゆう)-浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」の登場人物。松王丸、梅王丸、桜丸の父。菅丞相(菅原道真)につかえ、死後もその霊を守護した忠義心のあつい農民。北野や太宰府の天満宮にまつられる。別に白太夫は伊勢神宮の神職度会春彦のことで、道真の死をみとったという伝承もある。
○謟-?。読みは「うたがう」。音読みがトウなので「離れたれば訪う」の意味か。
○かけ乞-掛乞(かけごい)。江戸時代、節季に掛売の代金(掛金)を取立てたこと。
○中野静斎-中野省我(1742~1787)のこと。(伊勢市)宮後の人。詩人。また伊勢の歴史・地理に詳しく、故実や旧跡に特別な眼識があった。
四世 世木曽北(せぎそうほく)
○三越路-越前・越中・越後の3国。また、この3国へ行く道。
○風雅-俳諧。
○「小萩ちれ~」-萩の花よ、赤色(真赭(ますお)色)の小貝を集めた盃の上に散っておくれ。
○「爰による」-ここの浜に打ち寄せるニシキガイとみまがうような、萩とススキの花の色である。
○威勝寺-伊勢市辻久留にある寺院。久留山威勝寺。
○蜀魂-ホトトギスの別名。蜀の望帝の魂が化したという伝説から。
○橘屋-京都の本屋。蕉門の橘屋治兵衛。
○左柳-浅井左柳。美濃大垣藩士。通称は源兵衛。『続猿蓑』・『有磯海』などに入句。
○山形屋-京都の本屋。山形屋七兵衛。
○素雲-佐治素雲。俳人。号は吟鳥。北村季吟門人。
○惟然坊-広瀬惟然(いぜん)。別号に素牛、鳥落人、湖南人など。美濃出身。晩年に芭蕉に随従した。各地を旅し、口語調、無季語の句作をこころみた。
○あかざの杖-アカザはかつては栽培され、成長して秋には木化した。それを中風にならない延命寿命の杖として使用した。