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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

神風館四世 世木曽北(1)

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神風館四世 世木曽北(1)

四世 世木曽北(せぎそうほく)

延宝八年(1680)出生、本名邦光、通称権右衛門、不断斎と号し、涼菟門人で、一志町(現津市一志町)その他に住した。俳道に入ったのは少年時であったらしく、寛保三年(1743)四月曽北追善集「水のさま」に一得斎が
 世木氏泰邦光は総角(あげまき)の旦より白頭の夕まで俳諧に生れて其
 名高く涼菟翁が門に遊びて行脚を共にし古式の本道を踏て
 あたら敷岐に迷はす彼翁が再び興したる神風館を継で三世
 の主とは成ぬ云々
とある。
(注)原本未見のため写本に拠ったが、伝写に誤なくば弘員を神風館二世とし、曽北を四世とするは後案によるものと思う。

涼菟と共に行脚したのは、正徳四年(1714)三月末、北国行を指すもので、曽北にとっては生涯忘じ難い印象的なものであった。没前の寛保二(1742)年三月、自選になる「なみのはな」に当時の懐旧を述べて貝合せの余興を催して居る。
 涼菟子か行脚に三越路をつれありきて越中の源支か風雅に
 こころさしの深き有磯薄に遊ひはせを翁の小さかつきの句
 を中に置て各歌仙をひろひしは正徳の比なるへし今ここに
 覚て記し侍る
 左ますほ貝 小萩ちれますほの小貝小さかつき 芭蕉
 右にしき貝 爰によるにしき貝とや萩薄 涼菟
以下各人の句合がある。

○三越路-越前・越中・越後の3国。また、この3国へ行く道。
○風雅-俳諧。
○「小萩ちれ~」-萩の花よ、赤色(真赭(ますお)色)の小貝を集めた盃の上に散っておくれ。
○「爰による」-ここの浜に打ち寄せるニシキガイとみまがうような、萩とススキの花の色である。


享保二年(1717)涼菟没後は、乙由と風交を密にし、享保十三年(1728)卯月、威勝寺に於ける、麦林門下六十余名にて催された百蜀魂の大連句会に列座、その直後乙由、茂秋と三人同行、五月初旬より二ヶ月に亙(わた)る京地行脚をなした。書林橘屋、左柳、山形屋、素雲などを訪(おとな)い俳諧に興じ、野の宮に詣で、祇園会を拝観し、広沢池に夏の観月を催したりした。涼菟と北国行についでの記念すべき行脚であった。

○威勝寺-伊勢市辻久留にある寺院。久留山威勝寺。
○蜀魂-ホトトギスの別名。蜀の望帝の魂が化したという伝説から。
○橘屋-京都の本屋。蕉門の橘屋治兵衛。
○左柳-浅井左柳。美濃大垣藩士。通称は源兵衛。『続猿蓑』・『有磯海』などに入句。
○山形屋-京都の本屋。山形屋七兵衛。
○素雲-佐治素雲。俳人。号は吟鳥。北村季吟門人。

またあかざの月次会を起し、それを主宰して後進を導いた。此の会名は元禄の頃山田新町の藤の寺に仮住の蕉門惟然坊を、偶々来遊中の芭蕉が訪(おとな)い暫く足をとどめて
 やとりせむあかざの杖になる日まで ばせを
 此寺のあかさは杖につきころよ いせん
と互いに風懐を交したという。それに由来したもので(羽のしづく、蠖庵遺文)曽北にまた「秋の日の杖にかたまるあかざかな」の吟があり、曽北没後は入楚がその会を継承した。
(注)芭蕉のあかざの句は美濃の己百亭で作られたものらしいので、右の事柄を史実的に取扱うには、なお相当の考慮を要すると思う。

○惟然坊-広瀬惟然(いぜん)。別号に素牛、鳥落人、湖南人など。美濃出身。晩年に芭蕉に随従した。各地を旅し、口語調、無季語の句作をこころみた。
○あかざの杖-アカザはかつては栽培され、成長して秋には木化した。それを中風にならない延命寿命の杖として使用した。


神風館継承の年時は判然しないが、涼菟没後相当の年月を経ていたのではなかろうかと思われる。当時の所感に
 神風館再興 神かぜのかほりや付て松のこゑ
があり、また何時の頃か
 神風館を往古遊行上人の旧地にうつして新年を迎ふ
 風になびく柳も植ん初懐紙
がある。遊行の旧蹟は田中中世古(本町)の神光寺趾を指すか判然しない。(或は西行の遺蹟か)


 

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