「水のさま」によると、生涯名利を厭い、一所不住を楽しんだとある。その性格からしても、居を移すこと一再ではなかったらしい。ある時は山家に住して
身のうさののがれ所や山さくら
の吟があった。山家といっても市中に近い個所であったろう。それが妙見町(伊勢市尾上町)の三日月山ではなかったかと想像されることは、遺吟中に三日月庵の句が散見する。
三日月庵 のがれ住山の名ほ何三日の月
同 のきにたつ花たち花や三日の月
三日月庵にて 角芽たつ三日月庵や冬木だち
若しこの推察に誤なくば、その昔殷賑を極めた妙見町の往還を、藪一重に隔て、超勝、文珠、善念、上善の諸寺の隣接した小丘を、浮世離れた心地にて「身の憂さを遁れ栖む」に恰好の閑寂境だったろう。
(注)三日月山は尾上町の西南に位し、虎川の小流を渡って清水世古を文珠寺に接する裏の小山で、虎尾山に連繋し、そこに三日月天神が祀られ、界隈で可成有名である。明和9年の記録によると、天神25社の1つで、山本重兵衛(三日月庵と号す)が私祭して居た。また明治35年菅公千年祭の時白大夫35世の孫松木偉彦の謹書になる石の鳥居が奉献されて居る。
曽北家の出自に就ては未調だが、春木大夫と同様、天牟羅雲命を祖とする、度会春彦の末裔、世木氏光(外宮権禰宜)の系統を引いた家筋ではなかったか。春彦は外宮禰宜で、延喜九年(909)、菅公の九州左遷の時、随従した白大夫その人であると言う。曽北の遺詠に 天神 春彦の家へもちかしさくら花があり、天神奉納の吟であり、あながち無縁の作ではなかったろう。文政九年調「近代正権禰宜絶家之員数」(神官文庫蔵)に、世木吉左衛門行光家、世木権右衛門貞光家の名が見え、権右衛門家はこの時既に絶家となって居る。曽北の縁者であったろう。
○白大夫(しらだゆう)-浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」の登場人物。松王丸、梅王丸、桜丸の父。菅丞相(菅原道真)につかえ、死後もその霊を守護した忠義心のあつい農民。北野や太宰府の天満宮にまつられる。別に白太夫は伊勢神宮の神職度会春彦のことで、道真の死をみとったという伝承もある。
さてその他の遺詠を一瞥すると
衣食住を離れたれび謟人もなし
さそわれていやともいわじ華の春
つとめて風雅に遊ぶ人は俳諧の上手たるべし
あさ顔は其日をしまふ手本かな
あそご爰に遊びて
かけ乞も知らぬ顔也年の暮
世の中を悟れば軽き紙衣哉
花を見て落葉に終るさとりかな
何の気もつかぬ所へ老の春
などに逢着する。名利をいとい、寡欲恬淡、只管風雅道に生きた。その性格、人生観の一端が窺われる。またそれだけに日常生活は不如意勝ちであったらしく、天明六年(1786)中野静斎の宮川雑記に「俳諧師曽北は風雅の者にて家貧なり」云々の記事が見え、処世上無頓着な所業もあったらしい。
○謟-?。読みは「うたがう」。音読みがトウなので「離れたれば訪う」の意味か。
○かけ乞-掛乞(かけごい)。江戸時代、節季に掛売の代金(掛金)を取立てたこと。
○中野静斎-中野省我(1742~1787)のこと。(伊勢市)宮後の人。詩人。また伊勢の歴史・地理に詳しく、故実や旧跡に特別な眼識があった。