とりあえず読みながら入力だけにします。
語釈やまとめが面倒で進まなくなってきたので(笑)。
翌年還暦の春には「てふ鳥や我明ほのゝいとけなき」の吟を得、同年夏の頃、船江の俳徒春湖、東籬、淇水等相議して、同地狐垣外の二乗軒に芭蕉の若葉塚建立の際助力し、その碑句を揮毫すると共に、記念集「和歌葉」に序を与えた。門人に藤原丸巒、橋本角洲、高木四渓、松石買山、加藤南皐、橋本淇石、井阪文年、前田三径、池上菊所、中西花紅、佐々木仙風、鳥羽成風、岡島湖声、柏谷夏翠、安田居白、福井六外、木下東卜、谷口酔墨、笹島蒼雨、鹿海青暁、上野友湖、前田善哉、山羽翠如、林無介、佐田如屏、菊田耳来、伊藤一顧、植林恕孫、久保田覚民、等々多数有力なる人々を有して、郷土俳界進展に大きな貢献を成し、文化期俳壇の代表的作家であった。
なほ近衛流の書法に通じ、また鳴謙堂と号して花道にも精し
く、また寺子屋の師として一之木会所を授業所に当て近隣の子
弟を指導した。
丘高一家一門には俳人多く、父取友をはじめ、妻刀射女(大湊、
井阪家女)、男天口、偏、等、射程坂口不及、不及の妻幸平
(船江住弘訓門)、同女香山(全女)などがあり、珍しくも俳諧
を以てつながれた一族であった。
丘高は男天口等の誌す墓誌に「幼而至孝篤行也」とある如く
孝心が深かった。天明七年歳暮の吟に
年のくれめてたくもうき親の老 丘高
があり、微妙なる感情の両面を率直に表現して余す処がない。
此年父取友はめでたき還暦であった。その翌春、取友は
六十二齢のはるを迎へ一族にふたりの初孫を見て
両の手に我友得たり月とはな
の吟があり、孫の一人は丘高の長子天口(天明七年生れ本名老平、
定章。文政十二年四十三歳没)を指し、芭蕉の「両の手に桃
とさくらや……」に暗示を得た句で取友の好々爺振りと、丘高
の吟と対照してその一家の温い雰囲気を知ることが出来る。
文化十四年春、最後の慶春帖が板行せられ「朝かほの花はわ
すれて今朝の春」「行年のそらにつかへる人の知恵」の歳旦、
歳暮吟が入集した。
文化十四年四月九日没、六十二歳。著に春事帖、続花行脚、
月の宿、十三夜その他がある。
墓所 辻久留町灰抜原(榛木原)
碑面 平氏貞墓
かきりあるけしきも見えぬ桜哉
啼かへる空に巣もがな杜宇(ほととぎす) (四時唫刻句)
ふかかれとこそあけにけれ雪のかと
○
春雨や貝玉うむいせの海
春風や山のおくにも神ほとけ
卯の花やこのあたりから鄙くもり
引提て月に照らるゝ勝魚哉
松はらのひかり月夜を雁の声
来る人のかきたてる年の灯かな
(附記)
一、神風館の什物として伝来する歴代各館主の筆蹟の中、
入楚、洗利、弘臣、寸大、木蓊の短冊五葉は、後世に伝へ
るに便宜上一軸に仕立てられてある。それらには一々世代
俳号、住所、姓名が明記せられた小付箋が貼せられて居る
が、近衛流の筆蹟から考えても丘高の手に成ったことが知
られ、俳人墨蹟の蒐集家で有名な彼が寄贈したものであ
ったろう。それ以前までは足代家より初祖弘氏の短冊が館
号と共に継承者に、譲られて居た文献がある。(二世弘員
の筆蹟は不譲渡であったらしい)
二、丘高家は明治時代既に絶家となって居り、辻久留久留
春三(号品山、松坂病院長、昭和五年没)が墓地を管理して
居た。また、丘高の旧蔵俳人墨蹟品の多数は、明治時代三
回に亘って売却せられた。
三、丘高句集として、男天口が文政五年に編した、丘高追善
集の草稿本一冊がある。交友広島の篤老の筆になる、笹塚
の由来を述べた序が附せられてある。