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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

神風館七世 何声

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神風館七世 何声

 

七世 何声(かせい)

名穂音、風鈴庵と号した。姓氏住所不詳、その没は明和五年(1768)
二月二十四日、六十一歳と伝えらる。
 宝暦十一年(1761)温故没後、神風館を継承し、その社中に、入楚、
浮石、麦推、時風、舎丸、和鈴、為浄、哥清等名のある俳子が
あった。
 宝暦十三年(1763)、明和元年(1764)に編集した神風館歳旦帳は、いづれも
二十枚内外の堂々たる集冊で、内容も可也充実し、その熱意と俳
壇的潜勢力の程が知られる。

 

古雅堂己蝶、羅々とは殊に親交があり、延享三年(1746)三人共編の
「いせあし鼎」には、三吟唱和吟を収め、巻頭に「三人行必有
我師」の論語の一章を飾って居り、八僊、柳居、麦浪の序跋が
見え、純然たる麦門の余風を伝えた俳集であった。

〇柳居-佐久間柳居(1686~1748)。江戸時代中期の俳人。貞享3年生まれ。幕臣。貴志沾洲の門にはいるが、江戸座の俳風にあきたらず、中川宗瑞らと「五色墨」をだす。のち中川乙由の門下となり、蕉風の復古をこころざし、松尾芭蕉の五十回忌に俳諧集「同光忌」を撰した。延享5年5月30日死去。63歳。名は長利。通称は三郎左衛門。別号に松籟庵,長水,眠柳など。

 

この頃麦門の末流は以前根強く隆盛を極めたが、一般傾向が
遠く正風を離れ、軟弱不調に堕ちた。己蝶がその著「伊勢俳諧
古雅談」に
 今の風土末、人の云ざる新奇を見付る程の器にもあらされば
 蕉翁の立給ひし正雅に立戻り、変風に落さる事をねがはんも
 のならめ云々
と訓戒して居る。這般の情勢にあったので、後年辻村逸漁が師
樗良の碑を、川崎宝珠院に建立の時
 我郷俳諧麦林叟没後、梅路・季覧に至りて盛に流行して遺風を
 遺す。中頃何声出て一風変化して後、風調区なり云々
と誌した。それ以来史家をして、何声の俳史上に於ける価値が
批判され、伊勢俳諧俗了の誘因が、その辺に在ったかの如く伝
へられ来った。時代の趨勢とは言え、天明俳壇の先駆者樗良の
翻した、正風復古の旗幟が、あまりにも華々しく輝いた結果に
よるものであろう。

〇辻村逸漁(1741~1797)-河崎の廻漕問屋(運送業)、辻村家の三代目当主。俳人で加藤暁台と親しく、加賀千代も来訪したことがある。三浦樗良、井上士朗を師友とした。



何声は俳画の心得もあり、吟詠も可也遺されて居るが、伝記
資料の存するものは尠ない。嘗て寓目した附句評に関する文献
がある。大して意義を有するものではないが、当時作者の心構
えを窺うことが出来るので、参考の為要約して転録してみる。
 粽にちかき笹の葉の風
 駒下駄に翠簾の一重の旅心
右の句に何声が引墨を加えた処、ある者から疑義を申出た。
即ち青すだれなれば夏季であるが、翠簾とのみは雑の詞で常用
の具である。また翠簾の中の人物を何声先生は官女と見定めて
居るが、官女は風情のみ知って旅の心もない翠簾の内の上人で
あるから、一重を旅の心と云う作であろう。斯くの如く一句に
ことごとく情を尽すなれば、外の女中などもつき添たる姿もあ
ろう。この付方は何声先生が風雅の魂をさぐりたる附方である
か如何、と云う質問である。それに対して何声が
 当世の宗匠達見のがしもある所成を誠に恐るべく、そもそも
 俳諧はその席その夜の水ものにして、その器其一軸の変に随
 ふべくか。野生無用の墨を引て当時俳士の誉れを待んにはあ
 らず。只其時其節の拍子なれば也。一盃の腹かげんにして復一
 盃の機嫌によるべし。只野生が引墨はかゆき所へ手のとゞか
 ざるに等し。いよいよ懼るべし。
 夕立や田にも畑にも生しめり
軽妙な字句を駆使して、体をかわして居るが、評者としての
貫禄を問われた心地して、聊か当惑した心状が看取される。

〇翠簾-恐らく「みす」と読む。緑色のすだれ。青竹のすだれ。
〇引墨-合点をつけること?

 

 牛馬の舌もぬらさぬ枯野哉 真蹟
 みちのくやあさの中なる雛祭 同
 ミヽの垢ころりと出たる蛙哉 同
 冬の日の野にあまりたる寒哉 (延享三年(1746)あし鼎)
 千木の肌合ふ日のもとの宮居哉 (宝暦二年(1752)大神宮奉納)
 節衣着て何に似ふそ梅の花 (宝暦十三年(1763)神風館歳旦)
 元日や千代よろづよも此通り (明和元年(1764)神風館歳旦)

〇節衣-現在の読みは普通は「せちごろも」だが、ここでは「せつい」?正月の節振る舞いの席上で着る小袖。「節振る舞い」は節日に人をご馳走でもてなすこと。特に、正月節日に、新年を無事に迎えたことを祝って親類縁者を招いて宴会を行うこと。

 


神風館七世 何声まとめ

・宝永五年(1708)生まれ?名は穂音、号は風鈴庵。
・延享三年(1746)、古雅堂己蝶、羅々と三人共編の「いせあし鼎」を発行。麦林門の八僊、柳居、麦浪の序跋あり。
・宝暦十一年(1761)、温故没後、神風館を継承。
・宝暦十三年(1763)、神風館歳旦帳発行。
・明和元年(1764)、神風館歳旦帳発行。
・明和五年(1768)二月二十四日、死去。

 

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