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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

神風館六世 温故(3)

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神風館六世 温故(3)

 

梅路亡き後の建部涼袋は温故、入楚と親交を重ね、俳縁深き
伊勢の地を絶えず憧憬して居た。安永三年(1774)五月、涼袋門の角鹿
斎一鼠が句合「瓜の実」を編した時、涼菟、乙由、梅路、兎士
の名家についで、温故、入楚の句を取入れるを忘れなかった。
それによっても温故の名声のひろくあったことが窺われる。

○角鹿斎一鼠(1730~1782)-大阪の墨師で受領号(江戸時代、優秀であると認められた職人や芸人が、国名を付した官名を名のることを許されたこと。)は井上出雲掾。俳諧は建部涼袋門。越前国敦賀生。蕪村や樗良ら、中興諸家と交遊した。

 

温故の事蹟中、その美挙と称えられるものに、寛延三年(1750)梅路
の碑を、既建の涼菟、曽北碑の側に並建して、懐旧の至念を遣
ったことと、宝暦四年(1754)十月師曽北の遺命を奉じて、入楚、雁路
等と協力して、芭蕉の木槿塚を西行谷に建立し、遺徳に報いた
ことであった。

○芭蕉の木槿塚を西行谷に~-「西行谷」は西行が晩年伊勢に住んだと言われる場所で、二見と宇治の2説あるが、この「木槿塚」は宇治の西行谷に建てられた。「木槿塚」は『野ざらし紀行』に載る「みちのへのむくげは馬にくはれけり」句の芭蕉真筆短冊を西行谷の松の下に埋め、その傍らに建てた碑のこと。この碑はその後、伊勢市辻久留町の威勝寺(明治3年廃寺になったので、もしくは威勝寺跡)に移され、昭和初期まではそこにあったが、のちに豊宮崎文庫跡に移された。

 

著に木槿塚集、蝉のから等があり、その史的地位は一言にし
ていえば、伊勢風の忠実な祖述者であった。
 刈に来た笛ともしらずおとり草 (真蹟)
 かくれ家や花にも実にも竹の月 同
 雲になれ物な焚せそけふの月 同
 閑古鳥奥の院にも奥の院 (寛延三年蝉のから)
 姫松の声にわかるや朧月 (宝暦五年梅のしつく)
(附記)温故の真蹟に「神風館五世」と書せるもの現存す。
固より六世とするは前述の如く後人の世代の案によるもの
である。

 (おわり)


神風館六世 温故まとめ

姓氏・住所・生年不明。最初は麦林に師事。世木曽北の門人。梅路に兄事した。号は呉竹庵。
享保十三年(1728)4月、威勝寺での麦林門下の百時鳥会に参加。
寛保二年(1742)、乙由三年忌に句あり。
延享二年(1745)、芭蕉五十回忌に京都東山の沙羅双樹林寺(双林寺)で催された、彭城百川の記念句集『「八仙観墨なほし』に何声(7世)らと共に入集。
延享三年(1746)秋、江戸の白井鳥酔を伊勢岡本の妙法寺に迎える。
延享四年(1747)幾暁の「笈の塵」(序百川)に入集。
延享四年(1747)2月23日、梅路死去。
延享四年(1747)10月、双林寺で彭城百川によって剃髪。
寛延元年(1748)4月頃、伊勢へ帰って呉竹庵に入り、神風館をつぐ。
寛延二年(1749)7月、加賀の掘麦水を伊勢岡本の妙法寺に迎える。
寛延三年(1750)、梅路の碑を、既建の涼菟、曽北碑のそばに建立。
宝暦二年(1752)秋、大神宮奉納句集に何声らと句を奉納。
宝暦四年(1754)10月、師曽北の遺命を奉じて入楚らと芭蕉の木槿塚を西行谷に建立。
宝暦十一年(1761)九月二十日、死去。

 


 

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