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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

大主耕雨002

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大主耕雨002


前回言った通り、『伊勢渡会人物誌』より。改訂版なので昭和50年発行だが、元版は昭和9年くらいだったはず。前回の『先賢伝』と今回の『人物誌』が、三重県の過去の人物を調べる時の一般的な本である。
『人物誌』は最初に人物の基礎データがあって、後にその事跡が掲載される、という形をとっている。



人名/大主耕雨
系譜/白米満省の四男。鶴郊の養子。
別称/織江。字:光穆
生年月日/天保6年5月19日
没年月日、享年/大正4年10月7日。81歳。
生地/辻久留
住所/八日市場
墓地/二俣山崎

事跡/
神宮宮掌より進みて正五位主典に至った。幼より俳才あり、6歳始めて蒲公英(たんぽぽ)の句を読みて養父に賞せられ、以来其の教えを受け、傍(かたわ)ら夜雨亭米牛につき、又京都の梅慰舎梅通の門に入って其の道を研究し、文久2年摂家二条公より俳諧熱心に付き、門下連衆に加うべしとの免状を受けた。性快活にして門下を率いるに敢えて難きを求めず、又四方に周遊して諸名家に交わり、俳名大いに顕れた。
時世:須弥壇に飛込みにけり秋の蝶
何事もいはず初日の神路山
夕暮れを譲り合ひけり花と水
石撫でて立たんとすれば蓮かをる
実なし貝ひろへば月の雫かな



○『続先賢伝』に無い、または相違する所のみ書く。
○実父の白米(はくまい)満省(みつよし?)は人名事典等になく不詳。ただし兄の白米家を継いだ白米棋外(きがい)という人は掲載されている。生没年は天保元年(1840)~明治45年(1912)。耕雨より5歳年長。兄も俳諧をよくし、野村野渡(やと)の門人。野村野渡は夜雨亭(やうてい)の門人だという。大主耕雨の先生の中瀬米牛が夜雨亭五世だから、その何世か前の夜雨亭だろう。
○父の名、鶴郊は、『続先賢伝』では鶴外。字(あざな)の光穆(こうぼく)は『続先賢伝』にはない。
○住所が八日市場とある。ちなみに父も息子も住所は八日市場となっている。現在の伊勢市八日市場町の位置は、外宮の西側+外宮の外の北側。
○墓地は二俣山崎。現在の伊勢市二俣は例によって「伊勢市二俣」と「伊勢市二俣町」にわかれている。場所は外宮の西。ちなみに大主耕雨について出てきた地名の位置関係をあげると、大主家の住所の八日市場が現在の外宮の中+北にあり、その西に父鶴郊の生地である浦口、その西が墓地のある二俣、その西が耕雨の生地である辻久留、となる。すべて隣接している。山崎は不明。
○あと、耕雨父、耕雨の「事跡」と耕雨の息子の「墓地」のところに「辻久留に移」と書かれているが不明。誤植で、3人の墓地は辻久留へ移された、という意味とか?
○神宮宮掌とあるが、宮掌(くじょう)は「伊勢神宮や熱田神宮の神職の一。権禰宜(ごんのねぎ)の下に置かれる。みやじょう。」とある。神宮の役職は複雑でよくわからない…。『続先賢伝』とあわせると、最初家職である大内人という役職で、階級?は宮掌、のちに階級?が主典にあがったということ?ここらへんは詳しい人と時々あうのでまた聞いてみよう。
○「梅慰舎梅通」は堤梅通のことだが、「麦慰舎」の間違い。


以上。資料はあといくつか。

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