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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

大主耕雨001

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大主耕雨001


人物については、まずは地元の人名事典から。
まずは『続三重先賢伝』(昭和8年)の大主耕雨(おおぬしこうう)の項より。

伊勢山田の人。通称織江、為豊園、又半田居士と号す。天保6年5月を以て辻久留に生れ、長じて大主鶴外の養嗣となる。幼にして俳才あり。6歳の時甫(はじ)めて蒲公英(たんぽぽ)の句を詠じ、以て之を養父に示す。養父其の奇才を称す。以来其の膝下にありて教を受け、傍ら中瀬米牛に就きて学ぶ。万延元年京都に遊び、花の本梅通の門に入り其の蘊奥を究め頗る秀才の名あり。文久2年3月二条家より俳諧熱心に付き、御門下連衆に差加らるべき旨を以て免状を受く。家世々月夜見宮大内人たるの故を以て家職を継ぎ正五位に叙す。明治14年より24年に至るまで10ヶ年間神宮主典を奉じ、其の間22年及び27年の遷宮に奉仕せり。資性快活にして洒々落々常に談笑の中に要領を指摘す。又常に四方に漫遊して至る所名流大家と交り俳句連句の名、世に高し。大正4年10月7日没す。年81。辞世の句あり曰く、
須弥壇に飛び込みにけり秋の蝶


○山田の人で、通称は織江。読みは「おりえ」だろか。為豊園(いほうえん)。半田居士(はんでんこじ)。
○天保6年5月生まれ。天保6年は1835年。時代的には、次の年の天保7年(1836年)に画家の磯部百鱗が生まれ、その次の年の天保8年(1837年)に、三重県とも関係の深い大塩平八郎の乱が起った。
○辻久留は…あれ、現在「伊勢市辻久留」と「伊勢市辻久留町」が別にある。どちらも外宮西だけど、辻久留は宮川沿い、辻久留町は、その南あたり。一応繋がってるので昔はまとめて辻久留だったんだろうか。
○父の大主鶴外は、『伊勢渡会人物志』だと「鶴郊」となっている。画と俳諧をよくした。画は四条派で、あの有名な松村景文に習っていたらしい。ほー。まぁでもこういうはしの部分はまた今度。『人物志』の記述も後々。
○俳諧の詩は父と、中瀬米牛。中瀬米牛はよく名前が出てくるがあまり知らないな。『続先賢伝』によれば伊勢山田浦口町の人。あれ、浦口町また「伊勢市浦口」と「伊勢市浦口町」がある。町の有無で別地区って伊勢市のデフォなの?まあいいや。場所的には辻久留の東隣で、外宮のすぐ西。書道と俳諧がたくみだった人。生没年は文化10年(1813)~万延2年(1861)。耕雨より22歳年長。夜雨亭五世。他にも『続先賢伝
』に浦口の夜雨亭二曲って人がいるから、夜雨亭は全国的なものじゃなくその地の俳名らしい。
○万延元年(1860)京都へ。耕雨26歳くらい。
○花の本梅通は堤梅通。京都の俳人で生没年は寛政9年(1797)~元治元年(1864)。耕雨より38歳年長。
○文久2年(1862)年。耕雨28歳ほど。二条家から御門下連衆に加えられ、免状をもらうとあるが。御門下連衆とはなんぞや。連衆(れんじゅ)は辞書に「(1)連歌・連句の会席に出て詠み合う人々。(2)江戸幕府で、連歌始めのとき、連歌師とともに出席した役。多くは神官・僧侶が任ぜられ、寺社奉行の支配下にあった。 」とある。(2)の連歌始めは幕府の年中行事なので(1)の意味と思われる。つまり、二条家での連句(=俳諧連歌)会に出席を許された、ということか。けど、公家が俳諧するとかあんまり聞いたことないが…そこらへんはどうなんだろうか。
○家は代々、月夜見宮大内人で、家職を継いで正五位になったとある。月夜見宮は外宮。大内人(おおうちびと)は「伊勢神宮・熱田神宮などの大神宮に仕え,供御(くご)の事などをつかさどった神職。」とある。供御(くご)は天皇などえらい人の飲食物。ということはお供え物のことかな。いつ京都から伊勢へ帰ってきて、いつ継いだのかは、『続先賢伝』には書いてないのでわからない。
○明治14年(1881)から10ヶ年間(~1891)神宮主典。明治22年(1889)、27年(1894)の遷宮に奉仕した。主典(しゅてん/さかん)は禰宜(ねぎ)の下で祭儀・庶務を担当した神職。明治22年には第56回式年遷宮があったが、明治27年は何?不明。
○大正4年(1915)10月7日没。年81。


今回は以上。次回は『伊勢渡会人物誌』の方を見てみます。で、いくつか見て、最終的に経歴をまとめる、という方向で。


 

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