三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
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『耕雨遺稿』はこれで最後。
連句の後は2つ文章があって、終り。
二つ目は俳文だと思う。
改行は原文通り。
遊橋立
厳島いつを限りの旅寝してまた来む春をまつが浦島
こは明治十とせ餘り一とせ、山陰より山陽に物して後、東
奥にありし時の蜂腰になむ、けふや謝江に船を浮べ
て多年の思ひをはらし、橋立明神にぬかづく
はし立やひきゆく波の■こゝ
成相寺に登りて吟望するに、万頃の潮、銀の如く、千
株の松は翠をかざせり。松は月日のこぼれ種とは夜半
翁の作にて、守る神なくば波越えむとは蘭更翁の句也。
こゝに至て奇景いよゝゝ奇にして二つの眺もいかでか
此勝に対して口を閉る外なし。
かこみなす波におし出て松六里
醵飲第百一会の探題に挑灯といふを得て
惟るに此物の生立ほど世にをかしき事はあらじ。そも提
灯ばいゞゝとうなゐ子の遊びわざにもてはやされてより
祝日の軒提灯には日の御旗と肩を同うし、嫁入の
結び提灯に儀式を正したり。祭礼の釣提灯となりては
若衆の手を借て神慮を慰め、盆会の揚提灯に
は聖霊、婆々に労をかけて無常を悟らしむ。浅草
雷門の大挑灯は魚河岸の繁昌を顕し、天満橋の
紅挑灯は贔屓役者の乗込に競へり。金紋先箱
挑灯綺羅の如しとは幕府の世、盛にして、分持尾
軽に御用挑灯をふり廻すは御師の旧弊たり。■■
が中国の舟上りに親子の奇遇をなさしめ、不破名古
屋が中の丁の■■に鞘当の中裁をなせ
しは此物の功又明らか也。揚屋通ひの送り迎に
箱挑灯を照らす大尽あれば、引廻し合羽に草
鞋を引しめて小田原提灯をさげ行旅壱?人あり。
奥州者は是を火シ袋といひ、禿あたまは是の代
用をなすとかや。其他千差万別挙ていひ尽す
べからず。されど彼川柳点の帆柱の提灯になる
残念さとの一句によく老境の述憐を穿てり。併
近来岐阜提灯の如きは大に■■賞せられて多
く海外迄輸出するは、此物の栄誉なり。所謂提
灯の土用干ぶらゝゝ然として日を消し、ゆめゝゝ
人の挑灯持となりて水たまりへ飛込事なかれといふ
照らされてあしもと寒し小挑燈
○「遊橋立」は、よくわからないところもあるが、明治11年に中国地方に行った後で天橋立に観光にいったことがわかる。「東奥」や「蜂腰」のここでの意味がわからない。東奥は東北という意味ではないはずだが。「謝江」は京都与謝郡の江。
そういや前にもあっったけど、この「遊橋立」にもある「夜半翁」って与謝蕪村のことなんですね。いくつか前に全然違うこと書いた。こういう基礎知識がないので恥ずかしい間違いをする。
これで『耕雨遺稿』の本文はおしまい。
この後は以前書いた矢野二道の跋となります。
最後に、この本を発行した「同門会」のメンバーが挙げてあるので、それらの人を元本そのままに書いておく。(他に刊行年とか出版元とかは何も書いてない)
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伊勢国山田市河崎町久保田初蔵方
文音所 同門会
長谷川可同
久保田秋雨
中井社楽
早川素洲
林海月
小竹耕雪
尾崎梅烏
西村白扇
浅沼鶴堂
白井素水
山下桜洲
川合水影
大主氏香
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以上。同門会だから全員耕雨門ということだろう。
ちなみに久保田初蔵は久保田秋雨のこと。
大主氏香は孫かな?子の近青は耕雨より先に亡くなっているので。
逆に近青が死んだから同門会というのがこの本を作ったともいえるかも。