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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

神風館五世 梅路(3)

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神風館五世 梅路(3)

 

梅路を知るにはその俳論をきく必要がある。しかし詳述する紙幅をもたぬので、茲には彼が初学者に開陳した懇切な附句の心得と作句例を摘録して、その片鱗にふれてみよう。

 肩衣草といへど泥水
といふ前句あり。人はむつかしき前也と云。さにあらず。かゝる前句は此句を付よと前句より趣向を教えて誠に後句の師也としるべし。肩衣草を以て礼服として泥水を以て田荘の場として一句のあやを盛衰にとれば、
 肩衣草といへど泥水
 鎌倉は今百姓の馬肥て
我かく付たり。天下の俳徒、誰かは難ぜむ。
 ○
 鶯が油断をさせる経机
 国の便をためて腰張
 ○
 きのふから来た出代りの声
 手間取て髪ゆふくせはうつくしい

右は南仙録よりの抄出で、洒脱軽妙な作風は伊勢風梅路が本道であった。

○肩衣-室町末期から素襖(すおう)の略装として用いた武士の公服。素襖の袖を取り除いたもので、小袖の上から着る。袴(はかま)と合わせて用い、上下が同地質同色の場合は裃(かみしも)といい、江戸時代には礼装とされ、相違するときは継ぎ裃とよんで略儀とした。
○田荘(たどころ)-田地。田のある所。
○経机-読経の際、経典をのせる黒または朱の漆塗りの机。

 

寛延三年(1750)温故選「蝉のから」には、北国行脚から、月次連
中に宛てた、句入書簡が挿入されて居る。
 幸便申述候。前書相達可申、貴慮御恙有間敷候。此地毎昼夜之俳
 諧面白事、恥をかきし事数々に候。或時は純子之夜着に巻れ、口
 は甘きものに飽申、生涯之栄花、盧生が夢のこゝろ仕候。もし夢
 にては無之候半歟。其御地に梅路は寝て居申さず候や。末略。
 ○
 貧家とハ見えぬ筵の新しく
 養ふて来て蜑(あま)におしかる
 ○
 門見ても六字唱へる誓願寺
 長生するにご法度はない
涼菟、麦林の勢力の扶植地として、伊勢風の隆盛をみた北国
加賀辺りの行脚であったろう。その地に於ける過分の款待振り
に満悦して「生涯の栄華盧生が夢」云々の当意即妙の一齣(ひとこま)は正
に味うべきものがあろう。

○純子-たぶん緞子(どんす)のこと。

 

なお奥山桃雲が彼の俳才を認めて、河崎音頭を綴らしめたが
特に附合の技に長じた彼が、自からの力をたのんで欣然これに
応じたことは察するに難くはない。
 暮れんとす木の間ゝゝの鳳巾(いかのぼり) (真蹟)
 万物の一に俵や蔵ひらき 同
 猪(い)の寝(いね)た跡とは見ゑぬ花野哉 同
 西行は和布(にきめ)も草の枕貝 (寛保二年なみのはな)
 こほれても水おもしろし夏の月 (寛延三年蝉のから)
 富士見れば笠の裏ふるしくれ哉 (安永三年瓜の実)

○鳳巾-凧(たこ)。いか。 [季] 春。
○和布-柔らかな海草。ワカメの類。

(終)

 

神風館五世 梅路まとめ

生年不明。伊藤又一、または中森又一。河崎町住、漁商と伝えらる。河崎音頭の作者の一人。
享保九年(1724)、各務支考編「三千化」に伊勢山田川崎連中として句が見える。
享保十年(1725)八月、一志郡香良洲(からす)神社、神遷奉納歌仙に麦林門下連中と唱和。
享保十三年(1728)、威勝寺の麦林門下の百時鳥連句大会に列席、乙鳥舎の号あり。
寛保二年(1742)冬、師曽北の病床に持して、俳諧の旧式口訣を承けた。
寛保三年(1743)二月五日、曽北死去。
延享三年(1746)晩秋、梅路に傾倒する建部涼袋が伊勢に来て、その病床を見舞った。
延享四年(1747)二月二十三日、死去。

 

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