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三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

松坂文芸史 江戸後期~の俳諧部分抜き書き

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松坂文芸史 江戸後期~の俳諧部分抜き書き


『松坂文芸史』(昭和11年、桜井祐吉)
三重県の松阪に関する事のみですが、いくらか当時の俳諧のことが載っているので抜き書き。
色々な文をわざわざ抜き書きしているのは、検索・加工などに使うためです。
あとはメモ、勉強も兼ねて。




百年前の松阪俳壇文化、文政度より天保以降元治年間迄の松阪俳壇は俳人の数に於ては前代未聞多きに達せるも、何れか皆低調、所謂模倣に非んば糟粕を嘗むるに過ぎず、之を約せば時代にも地理的にも文盲、現実を忘れて妄誕に奔り、絶えて創作に関心を持つものあらざりき、要するに学問を離れての文芸あるべき筈なく、這般の吟徒は概ね無学の結果と断ずるの外なし、今試みに当時の俳人中稍や著はれたるものゝ最も緊張したる作品と見らるるものに付之を実例に徴すに

嘉永六年丑十一月
発起 伊勢寺村 荒井勘之丞
所々取次 岡本村白台 西川十郎兵衛 奉納 南勢伊勢寺村念仏寺
弧峯山十二景之発句
(俳句略)古柳
(俳句略)普品
(俳句略)白台
(俳句略)白羽女
(俳句略)寿満
(俳句略)いはほ
(俳句略)甚六
(俳句略)竹庵
(俳句略)翠川
(俳句略)夜白
(俳句略)米府
(俳句略)条山

此内荒井勘之丞は郷土史の著述として喧しき勢国見聞集二十四巻の著者たり、俳人中著者の漸やく知るものは白台が松尾村岡本の西川十郎兵衛、翠川が久米村の世古氏、夜白が松阪の長谷川氏、いはほが松崎村の人等々に過ぎず、今按ずるに俳句の調は近世月並の平凡化せるものゝみにて偶ま普品の富士の句に至つては噴飯せざらんと欲するも能はざるものあり、而も世情騒然、皇国の興廃頗る暗澹たる維新前後、三百年の泰平に馴れたる神風の伊勢路の春は太とも長閑にして、俳人の群は益々増へ点取りの競争此時を限りとして不相変古人の糟粕を嘗むる徒は日に月に其数を加へぬ。当時何人の即興によるものか伊勢国正風の俳人見立番附を作れるものあり、流石に刊行することを得ずして原稿の侭なるを著者夙く所有す、其興隆の状況を思ひ見るべく左に之を掲ぐ

(「勢国正風俳家集」元治二年の表略)

明治前後に於ける三重県下の代表的俳人は前顕番附中にあるが如くにて、其内の松阪人中首位を占むる富島稑水は松阪白粉町の人、夙に正風の俳諧を嗜みて、俳友各地に多く、地方俳人中の頭目として松阪愛宕山、同天神其他の神社仏閣に納額の奉納俳句を募り、幾多の事蹟を遺せり、其筆跡は稀に見る名筆にて、其句又月次調とは云へ、頗る達者にて当時の俳人中の一偉材と称するを得べし、猶ほ長谷川夜白、長井五鈴、小津洗我等にあれど、何れも富豪の有閑消事的俳諧とも称すべく、斯道の為め材を吝まず、後進の扶掖に努めたる事歴以上多く文運貢献の事蹟莫きは惜むべし

明治大正の松阪俳壇
明治の末期より大正、昭和に渉る松阪俳壇の文運は遺憾ながら之を後毘に垂るゝ程の功績認め難く、僅かに山田の大主耕雨門の長谷川可同(松阪の富豪長谷川家の先代主人)あり、松阪一葉庵を再興せる上野枕水(工学博士上野誠一氏の実父)あり、共に松松阪に立机し宗匠格として、旺んに月次の隆昌を期せる外、正岡子規の唱道せる新派即ちホトトギス派に随喜する新傾向の俳人、徐々に台頭し、松阪郵便局員たりし、坂井含雪、湊町の人牧田雪光ありて現代に及ぶ、現在の松阪俳人にて著名且つ道に忠実、今猶斯界の重鎮たるもの尠からざるも、仔細ありて是等現存者に対しての叙説は省略し、以上を以て松阪文芸史中の俳諧方面の完結と為すべし。



昭和11年のものなので、耕雨時代よりむしろ耕雨没後の松阪俳壇の様子がわかる。
元治二年(1865)の見立番付「勢国正風俳家集」では、大関の次の関脇にすでに大主耕雨の名がが載っている。
この頃の伊勢俳壇の大物は神風館の為田只青だが、それは「勧進元」として名前がある。
いずれ只青のことを調べてプチ展示するときにこの表を使うのがいいかもしれない。


 

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