三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
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家に大量にある今まで不明だった短冊を、耕雨の弟子が入っていないかな、と思ってめくっていると、香石に関する短冊がでてきました。
香石は例の点取り俳諧資料の所持者、浦村香石です。
香石の短冊ではないのですが、香石が竹川という姓を継いだことを祝う題の物が複数見つかりました。
どうやら途中から浦村から竹川に改姓したようです。
で、竹川って、あの竹川竹斎で有名な竹川家と関係あり?とちょっと思いました。
そういえば以前にも書いた俳誌『神路』に香石は投稿しており、作者名は「山田 香石」のように書かれています。これを見て住所が山田からあの竹川家のある斎宮などと変わっていないか調べてみました。
うーん、山田のままでした(笑)。
掲載の場所によっては「竹川香石」と書かれているので、改姓後でも山田だったことがわかります。
○神路
この俳誌『神路』は前も書いたかもしれませんが、手持ちの物は昭和5年9月~昭和8年12月の45~81号のうち30数冊で、81号で休刊となっています。
しかしこの雑誌を見ている結構いろいろなことがわかりそうです。
例えば、パラパラっとめくっているだけでも、
・一時文珠会を主宰した渡辺呂竹のこと。呂竹は『神路』の編集者ですが、出版の途中で亡くなっているので没年他、状況がわかります。追悼文や追悼俳句募集などあります。
・河崎天王祭りの俳句募集。耕雨没後の同門会の主宰者、久保田秋雨が中心となっています。
・秋雨の俳諧古跡収集の師で、もしかすると伊勢と関係が深く、互選方式を伊勢に広めた?伊藤松宇の名前もあちこちに見えます。
その他、耕雨没後の有力俳人、県外の宗匠とのかかわり、もちろん俳人の名前は多数収録されています。耕雨に俳諧をならった門人達の時代のことが新たに色々わかりそうです。
○浜田椿堂
浜田椿堂は『神路』の宗匠の1人だったので、調べて行けば判明することも多そうだな、と思いました。
で、三重県出身の俳諧に関する研究で有名な岡本勝先生の遺稿集『俳文学こぼれ話』に椿堂のことが書いてあり、浜田椿堂を調べる時に読もうと思っていたんですが、先にざっと目を通してみました。
すると私が知らない資料がいくつかあるようでした。
三世椿堂がいた、という資料があったり。読むまで三世の存在は知りませんでした。
ただ、県外のため私の持ってるような資料があまりなく、結構間違いも多いようです。
なので私の資料と合わせれば結構浜田椿堂のことがわかりそうなので、ちょっと調べてみたいな、と。
存命であればこの資料を提供して研究、出版していただきたかった所ですが、残念です。
うーむ。神風館はかなり時間かかりそうだし、本読んでるだけで新しいことはわからないし。
かといって『神路』は冊数が多いし俳人の名前も多いので、調べるとやっぱり時間かかりそう。
ということで、神風館読みながら、浜田椿堂のことだけ調べようと思います。
『神路』も椿堂のところだけ。
あと、神風館についてですが、伊勢市立郷土資料館(もう無いです)発行の「神風館」という展示の目録が手持ちにあります。
これ見ると初代~20世まで全員の肉筆資料が載ってますね。すごい。
短冊や掛軸の中には「神風館」としか書かれていないものもあるのでどうしようかと思っていたんですが、この本を見て筆跡から何世なのか確かめられそうです。
『松坂文芸史』(昭和11年、桜井祐吉)
三重県の松阪に関する事のみですが、いくらか当時の俳諧のことが載っているので抜き書き。
色々な文をわざわざ抜き書きしているのは、検索・加工などに使うためです。
あとはメモ、勉強も兼ねて。
昭和11年のものなので、耕雨時代よりむしろ耕雨没後の松阪俳壇の様子がわかる。
元治二年(1865)の見立番付「勢国正風俳家集」では、大関の次の関脇にすでに大主耕雨の名がが載っている。
この頃の伊勢俳壇の大物は神風館の為田只青だが、それは「勧進元」として名前がある。
いずれ只青のことを調べてプチ展示するときにこの表を使うのがいいかもしれない。
ブログさぼってましたが、明治大正の俳句史に関する本を読んでました。あと、耕雨の展示でなぜか耕雨じゃない短冊が交じっていたので差し替えました。
耕雨前後の全国の俳句史の本を読んだので、次は三重県のその時代の俳句の状況を三重県の本から抜き出してみます。
まずは『大正三重雅人史』。耕雨没の翌年の大正五年出版です。
当時存命の文芸に関して名のあった人の人名事典ですが、前半のページに当時の文芸の傾向が書かれています。
以下、抜き書き