三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
以下のような感じで書いていきます。
一世 足代弘氏
寛永十七年(1640)出生、外宮一禰宜、檜垣常晨七男、初名貞嗣、のち足代家を襲(つ)ぎ弘氏と改名、通称民部、又左衛門、慶安二年(1649)九月十七日叙爵(じょしゃく)、承応(じょうおう)二年(1653)九月十一日従五位上、寛文三年(1663)十二月三日従四位下に叙せられた。外宮権禰宜。
万治(まんじ)二年(1659)二十歳の時、正友の編集になる「伊勢俳諧新発句帳」に名を列ねているのが句の初見で、父常晨、兄貞晨も共に連歌、俳諧の嗜(たしな)みがあった。
○叙爵-律令制で、初めて従五位下を授けられること。
○正友-杉木正友(すぎきまさとも)。(1597~1676)江戸時代前期の俳人。杉木望一(もいち)の弟。伊勢山田の人。望一をたすけて伊勢俳壇の興隆に寄与した。80歳没。通称は久右衛門。編著に「伊勢俳諧長帳」、句集に「正友千句」など。
宮後町西河原に住し、宿館を外宮、館の土器橋辺に設け、職暇連歌、俳諧の道に精進した。久居城主藤堂高通(俳号任口)、難波の西山宗因と風交があり、任口より宿館に神風館の命名をうけ、その扁額を贈与せられたと伝へられる。
○藤堂高通(とうどうたかみち)-(1644~1697)江戸時代前期の大名。藤堂高次の子。久居藩主藤堂家初代。寛文9年兄の津藩主藤堂高久より5万石を分与されて立藩。俳諧を北村季吟にまなび、また和歌にもすぐれた。54歳没。号は任口(にんこう)。編著に「百番発句合」、歌集に「袖中和歌集」。
○西山宗因-(1605~1682)江戸時代前期の連歌師、俳人。肥後(熊本県)八代(やつしろ)城代加藤正方の小姓としてつかえ、京都で里村昌琢(しょうたく)に連歌をまなぶ。主家改易により浪人し、大坂天満宮の連歌所宗匠となる。また俳諧に関心をよせ、軽妙な句風の談林俳諧を大成、貞門派を圧倒した。78歳没。名は豊一。通称は次郎作。俳号は一幽など。連歌に「伏見千句」、俳諧に「蚊柱百句」など。
○館の土器橋辺-館は地名?現在宇治に館町はあるが山田には館町はないが。土器橋も橋の名前だろうがよくわからない。
談林風開祖西山宗因との交渉を知る一例を挙げると、延宝四年(1676)初冬、宗因(七十二歳)この地に来遊、約一か月滞留して、藤波氏富、松木因彦、同満彦、同慶彦、足代石斎、福井末言、幸田光延等、各邸宅において、同好連と共に連日連歌、俳諧の催しがあり、弘氏及び弘員(※二世神風館)も固より参会し唱和を重ね、特に宗因と両吟百韻を完成した。この巨匠を迎えて実に郷土文芸界、歴史的の盛挙であった。
(つづく)
だいぶ間があきました。
ヤフオクに大主耕雨が長谷川可同に送った手紙多数を巻物にしたものが出てたんですが、落札できませんでした。落札できたら解読&訳なんかをUPしようと思ってたんですが。
まぁいい機会なので大主耕雨はこれくらいにして次へ。
間が空いてたのはある情報を入力してたせいです。
自分で入力している三重県の人名事典的なテキストがあるんですが、そこに師弟関係を入力していました。
例えば足代弘訓の弟子、を探したい場合、その弟子が検索ですぐ出てくるように。
大主耕雨だけは先に入力してました。
で、それが終わってから色々伊勢の人を調べようかと思ってたんですが、師弟関係の入力量が多すぎて嫌になり、放置してました(笑)。
というわけで、ちまちま入力しながら、同時に伊勢の人をぼちぼち調べていこうかと思います。
といっても手持ちの本を見るだけですが。
まずはブログの概要のとこで書いた神風館について調べようかとおもいます。
ほぼ本に書いてあることをそのまま書いていくくだけでうす。
入力の基本となる本は『みもすそ』という本です。
○『みもすそ』
昭和28年に五十鈴吟社が出版した本です。
序によると、神風館十八世が昭和7年に没してから後を継ぐ者がいなかったが、このたび藤波月窓が神風館19世として襲名し、その記念としてこの本を出版したそうです。
基本的に記念句集ですが、最後に「伊勢俳壇神風館史」(岩出甫石著)があり、そこに歴代神風館の経歴が載せられています。
この『みもすそ』の歴代の経歴を入力します。自分が読んでいて必要だと思ったところだけ語注でを付けようかと思います。内容にあまり関係なことや、三重県のそれほど有名ではない俳人など、語注は付けません。他はわかる範囲で読み仮名をつけます。それ以外にも句読点変更など、ちょくちょく変えてるかもしれません。
『松坂文芸史』(昭和11年、桜井祐吉)
三重県の松阪に関する事のみですが、いくらか当時の俳諧のことが載っているので抜き書き。
色々な文をわざわざ抜き書きしているのは、検索・加工などに使うためです。
あとはメモ、勉強も兼ねて。
昭和11年のものなので、耕雨時代よりむしろ耕雨没後の松阪俳壇の様子がわかる。
元治二年(1865)の見立番付「勢国正風俳家集」では、大関の次の関脇にすでに大主耕雨の名がが載っている。
この頃の伊勢俳壇の大物は神風館の為田只青だが、それは「勧進元」として名前がある。
いずれ只青のことを調べてプチ展示するときにこの表を使うのがいいかもしれない。