三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。
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○正珍-杉木正珍。伊勢山田の人。秦姓。織部・宇兵衛・勘右衛門と称す。享保6年(1721)歿、84才。
○浦田蘆本(1664~1736)-山田の俳人。岩田涼菟の門下。編著に師の追善集「其暁(そのあかつき)」のほか,「第四伊勢墨なをし」などがある。通称は藤兵衛。別号に葎門亭,東向斎。
「神風館三世」のところに既出。宝永元年(1704)に豊後で師の涼菟と偶然出会う。
(おわり)
・延宝八年(1680)生まれ。本名邦光、通称権右衛門、号は不断斎。一志町(現津市一志町)などに住した。
・涼菟に入門する。
・正徳四年(1714、35歳)三月末、涼菟に従って北陸方面へ旅行。京都、石川県を経て新潟県で正徳五年(1715、36歳)を迎え、長野を巡り、名古屋へ寄って帰郷。
・享保二年(1717、38歳)涼菟没後は、中川乙由(麦林)と交流。
・享保十三年(1728、49歳)麦林門下による威勝寺(※伊勢市辻久留)での大連句会に参加。その直後に乙由、茂秋と三人で二ヶ月の京都旅行へ。京都書肆など各人と俳諧し、野の宮に詣で、祇園会を拝観し、広沢池に夏の観月を催すなど。
・あかざの月次会を興し、その中心となって後進を導いた。
・寛保二年(1742、63歳)病気になり、門人の建てた小庵に移り住んだ。
・寛保三年(1743、64歳)二月五日、死去。
・神風館を継いだ時期は不明。涼菟没後の享保二年(1717、38歳)からかなり後だと思われる。
・住所は特定の場所に定住しなかったので不詳。「三日月庵」の句から妙見町(伊勢市尾上町)にその一所があったと思われる。