忍者ブログ

三重県文学ブログ

三重県、特に伊勢市の文学に関すること。時代は江戸~戦前。

神風館四世 世木曽北(3)

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

神風館四世 世木曽北(3)

 

享保二年(1717)、師涼菟没し、正珍(1721没)、支考(1731没)、残夫(?)、芦本(1736没)、乙由(1739没)と相ついで親交の先輩去った後の郷土俳壇を背負って起ったが、寛保二年(1742)秋、病魔に見舞はれ、門人の建てた小庵に移り住んだ。その時冬至であったので、
 家移りや一陽うけて小豆めし
と吟じ、その年も暮れて「此冬はまことに枯るゝ柳かな」と一句を残し門人梅路に俳諧の旧式口訣(※口伝のこと)等譲伝へて、吾事足りぬと
 空々と物のにほひや月の梅
の辞世吟を唱へて、寛保三年(1743)二月五日、六十四歳を以て瞑目した。句集に妙見町住錦江亭黒部杜什編「神風館曽北発句集」(稿本)一冊があり、また延享元年七月に、一年忌集「其朝かほ」が門人によって編せられた。

○正珍-杉木正珍。伊勢山田の人。秦姓。織部・宇兵衛・勘右衛門と称す。享保6年(1721)歿、84才。
○浦田蘆本(1664~1736)-山田の俳人。岩田涼菟の門下。編著に師の追善集「其暁(そのあかつき)」のほか,「第四伊勢墨なをし」などがある。通称は藤兵衛。別号に葎門亭,東向斎。
「神風館三世」のところに既出。宝永元年(1704)に豊後で師の涼菟と偶然出会う。



墓所 大世古竹垣外墓地 自然石無縁仏として現存(昭和七年四月筆者発見)
碑面 不断斎槑可(ばいか)
背面 世木権右衛門 寛保三癸亥二月(以下土中)
 閑さや木すゑこほさぬやま桜 (真蹟)
 水おとをきく風情ありゆりの花 (同)
 年玉や雪一ふくろよし野葛 (句集)
 ほとゝきすよし野の奥は花盛 同
 三ヶ月をゆるき出したる若葉かな 同
 松風のうへに道ありしかのこゑ 同
 明星に山の尾寒し里神楽 同

(おわり)

 

神風館四世 世木曽北まとめ

・延宝八年(1680)生まれ。本名邦光、通称権右衛門、号は不断斎。一志町(現津市一志町)などに住した。
・涼菟に入門する。
・正徳四年(1714、35歳)三月末、涼菟に従って北陸方面へ旅行。京都、石川県を経て新潟県で正徳五年(1715、36歳)を迎え、長野を巡り、名古屋へ寄って帰郷。
・享保二年(1717、38歳)涼菟没後は、中川乙由(麦林)と交流。
・享保十三年(1728、49歳)麦林門下による威勝寺(※伊勢市辻久留)での大連句会に参加。その直後に乙由、茂秋と三人で二ヶ月の京都旅行へ。京都書肆など各人と俳諧し、野の宮に詣で、祇園会を拝観し、広沢池に夏の観月を催すなど。
・あかざの月次会を興し、その中心となって後進を導いた。
・寛保二年(1742、63歳)病気になり、門人の建てた小庵に移り住んだ。
・寛保三年(1743、64歳)二月五日、死去。

・神風館を継いだ時期は不明。涼菟没後の享保二年(1717、38歳)からかなり後だと思われる。
・住所は特定の場所に定住しなかったので不詳。「三日月庵」の句から妙見町(伊勢市尾上町)にその一所があったと思われる。

 

 

PR

コメント

プロフィール

HN:
奥田△
性別:
非公開

P R